内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

戦中日本におけるもう一つの近代の超克の試み(十五)― 総論と各論との間の「溝」

2017-03-13 20:16:58 | 哲学

 岩波文庫版『国語学原論』は、上下二巻本として、ちょうど十年前の2007年に刊行された。太平洋戦争勃発直後の1941年12月に同じく岩波書店から刊行された初版から数えて六十六年後のことである。その下巻末に前田英樹による解説文「時枝誠記の言語学」が収められている。三十五頁とかなりの長文で、時枝言語学の魅力について縱橫に論じられていて、読み応えがあり、教えられるところも多い。
 「時枝は、言語学における近代そのものを批判する」と前田は言う(288頁)。私は基本的にそれに同意する。今回の拙ブログの連載のタイトルを「もう一つの近代の超克の試み」とした理由もそこにある。
 他方、前田が解説文の最後に「彼の本領は、言語過程説を主張する「総論」よりも、「詞」と「辞」とのめまぐるしい関係の細部へと分け入る「各論」にある」と言うとき(309頁)、それに満腔の同意を表するとともに、まさにそうであるからこそ、「総論」と「各論」との間の「溝」が問題にされなくてはならないのではないか、と私は問いたい。
 ついでだが、時枝におけるこの溝は、和辻哲郎の『風土』に見られる第一章と第二章以降との間の溝と好対照をなしている。『風土』では、総論にあたる第一章「風土の基礎理論」に見られる豊かな理論的可能性を第二章以降の決定論的記述が裏切ってしまっているからである。
 しかし、和辻の場合も時枝の場合も、総論あるいは各論において、理論的に救えるところは救って、あとは批判的に切り捨てればよいというような簡単な問題ではない。
 時枝の言語理論に関しては、次の三つの論点から批判されなくてはならないと私は考えている。
 第一点は、これまでの記事でもすでに瞥見してきたように、言語過程説は言語理論として矛盾を内包しているという、時枝の言語理論それ自体の論理的整合性に関わる批判である。
 第二点は、言語本質観として展開された言語過程説が社会言語学・言語教育・言語政策などの分野において適用される際に見られる理論と実践との不整合性に関わる批判である。
 そして、第三点は、上掲二点の批判の対象となった問題の発生源を突き止めるという、より根本的な次元での批判である。