内的自己対話-川の畔のささめごと

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現代の荒む心から『万葉集』の「咲きすさぶ露草」にまで立ち戻り、そこからまた『徒然草』における「すさび」へと遊行する言葉の旅

2024-09-01 00:00:00 | 読游摘録

 これも一つの儚い慰みごとに過ぎないとわかってはいるのですが、普段何気なく使っている言葉を数冊の小型国語辞典で調べ、その言葉あるいはその旧形が古語にまで遡る場合は、やはりそれを複数の古語辞典で調べ、その語の原義から現用までの変遷を辿り直すことで自分の現在の感情の調整を図るという「遊び」に興ずることが私にはよくあります。
 例えば、「すさむ【荒む】」という動詞。『新明解国語辞典』(第八版)によると、「精神的な打撃を受けたことなどが原因で、健全な生活形態が失われ、絶望と不安から無気力になったり、自暴自棄に陥ったりする」ことです。「心が荒む」や「荒んだ生活」を現用例として挙げることができます。
 ところが、古語としての「すさむ」にはもともとそんな意味はありませんでした。「すさむ」は「すさぶ」の変化形で中古以降に急速に広まります。少なくとも中古までは、両語は同義であると見なせます。
 このような言葉遊びに興じるときのならいとして、まず大野晋[編]『古典基礎語辞典』(角川学芸出版、2011年)に当たってみましょう。「すさぶ」の解説はこうなっています。

スサブは、行くも止まるも、好きも嫌いも、勝手に振る舞う意。自然の勢いの赴くままにする意。
『万葉集』では、盛んに咲き乱れることをいった。中古以降の散文では、主に人の行為について、気分の赴くままに行う意で用いる。行為を貫く一定の方針や気がまえなどなく気分まかせにするので、勢いのよい行為についても、他にすることもなくする行為についてもいう。動詞の連用形を受けて、思うままに…するの意となることが多い。
中世の和歌では、雨や風が激しくなる意と、それがおさまる意をも表した。また、『日葡辞書』では、愛情が冷める意をあげている。スサブは、自然の力のままに振る舞うというのが原義であるから、その力のままに盛んにもなり、衰えもすることをいう。

 例えば、『万葉集』で「朝露に咲きすさびたる月草」(巻第十・二二八一)といえば、「朝露をあびて咲きほこる露草」の意です。『源氏物語』「紅葉賀」の帖で、まだ幼い紫の上が光源氏といっしょに少しだけ食事に口をつける場面は「いとはかなげにすさびて」と描写されています。『夫木和歌抄』(鎌倉後期の私撰和歌集)の「ふりすさび春雨かすむ夕ぐれの青葉のどかにわたる山かぜ」では、春雨の勢いが弱まり霞のように広がった状態を表しています。
 ただし、勢いが盛んなさまなのか、勢いが衰えゆくさまなのか、解釈が分かれる場合もあります。例えば、「誰住みてあはれ知るらん山里の雨降りすさむ夕暮れの空」(新古今・雑中・一六四二)の「雨降りすさむ」が「降りしきる」意なのか、「(それまで降りしきっていた)雨の勢いが衰える」意なのか、注釈者によって解釈が分かれています。それはそれとして、両方のイメージを重ね合わせた歌として味わうのも一興ですね。
 自然現象に関しては、その勢いが盛んになるにせよ衰えるにせよ、人間の意志が介入することはありません。そのいずれの場合にも「すさぶ/すさむ」が使われているということですね。人の行為に関して使われるときは、その行為が意志によらず、目的をもっておらず、その時その場での気分次第で為されるの意だとわかりました。
 この動詞の連用形「すさび」が名詞として人の行為について使われている例を見てみましょう。『徒然草』からです。島内裕子=校訂・訳のちくま学芸文庫版の本文を掲げます。「すさび」には「遊び」と漢字が当ててあります。ただし、これは校訂者によります。

思しき事言はぬは、腹膨るる業なれば、筆に任せつつ、あぢきなき遊びにて、かつ、破り捨つべき物なれば、人の見るべきにもあらず。(第十九段)

 「あぢきなき遊び」とは、「つまらない無駄書き」(島内裕子訳)「つまらぬ慰みもの」(小川剛生訳、角川ソフィア文庫)ということで、それ自体は目的ではなく、ある目的を実現する手段でもなく、意志に拠らず、気の向くままに自ずから為された「つまらない」アソビです。
 ただ、こう書きつける兼好は気ままなアソビに打ち興じているのではありません。第百六十八段に付された島内裕子氏の解説の一部を最後に引用します。

ディレッタントやアマチュアといった言葉に含まれる、すさび心や気ままさほど、兼好から遠いものはないからだ。兼好は、自分の心を最大限、自由に遊泳させながら、その手綱をしっかりと手に握っている。兼好が、どんなに自由に「心にうつりゆく由無し事」を書いても、これほど多彩で雑多とも言える内容でありながら、読者は「徒然草の世界」が「由無し事」どころではない、確固とした言葉が実在する世界であるのを確信できる。なぜなら兼好という人間は、一瞬たりとも、自分自身を見失うことがないからである。(329頁)