大学教師も学生たちに対してケアラーの役割を果たすことが求められるケースが増えてきている。ケアという言葉が流通するようになる前から、それぞれの学生たちが直面している或いは抱え込んでいる問題について教師が相談に乗り、解決に協力することはあったが、それは例外的なことであり、個人的な問題については、問題に応じて適切な対人援助のプロに委ねるか、家族内の問題 として間接的にしか関わらないのが普通であった。
学科でのミッション・ハンディキャップ担当教員を二年間務めたことや、この夏の東京での集中講義でのことや、現在こちらでの修士課程の学生にも慎重な対応を求められるケースがあることなど、ケアとは何かという問題をいわば自分の仕事の現場でも問わざるを得なくなっている。
今日の演習では、『ケアとは何か』のまえがきを、本文で展開される議論を先取りする補足説明を加えながら段落ごとに丁寧に読んでいったので、二頁ほどしか読めなかったが、ケアとは何かという問いが人間の本質に関わる問いであることは学生たちに理解してもらえたと思う。
この点についての村上氏の基本的な考え方はまえがきのなかで以下のように端的に示されている。
ケアは人間の本質そのものでもある。そもそも、人間は自力では生存することができない未熟な状態で生まれてくる。つまり、ある意味で新生児は障害者や病人と同じ条件下に置かれる。さらに付け加えるなら、弱い存在であること、誰かに依存しなくては生きていけないということ、支援を必要とするということは人間の出発点であり、すべての人に共通する基本的な性質である。誰の助けも必要とせずに生きることができる人は存在しない。人間社会では、いつも誰かが誰かをサポートしている。ならば、「独りでは生存することができない仲間を助ける生物」として、人間を定義することもできるのではないか。弱さを他の人が支えること。これが人間の条件であり、可能性でもあるといえないだろうか。
ここから「自由」や「自律」の再定義も要請される。「自立」した個人を前提とする人間観や社会観が根本から問い直される。