内的自己対話-川の畔のささめごと

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「すさぶ」小論補遺 「時間というもの、生起というもの、人心というものの根柢としての「すさび」」― 唐木順三『中世の文学』の兼好論から(二)

2024-09-07 17:44:52 | 読游摘録

 「ひとは、時代の荒び、心の荒びのなかにあって、「なぐさめごと、あそびごと」を求める。いや求めざるをえない。」と切り出してから唐木はこう続ける。
 「パスカルのいう divertissement(気晴し、鬱さ晴し、慰み、慰戯、いたずら、余興)は、「すさび」に当るだろう。不安と荒涼との砂漠のなかにあっては、ひとはなにかの手なぐさみ、気ばらしを求めざるをえない。ennui に身をまかせることはできないのである。」 
 しかし、パスカルのいう divertissement は、人間にとって時代や心の状態によって求めたり求めなかったりすることができる随意的なものではない。いかなる時代にあろうとも、いかなる心持ちであろうとも、この世界の中での人間の惨めさ misère に変わりはない。その逃れようのない惨めさと向き合わないための唯一の手段が divertissement なのだと言っているのだ。
 唐木は「すき」には積極性や主体性があるとし、「すさび」にはそれがないという。しかし、それらがあろうがなかろうが、どちらも divertissement であることには違いはない。何かに一途に打ち込むことも、人間の逃れがたい惨めさからの逃走であることに違いはないのだ。
 だが、唐木は divertissement の不可避性の徹底的な自覚がもたらしうる、いわば実存的な転回にまで「すさび」論を深めていく。

「すさび」の荒涼索漠は反って、生や生起や、時間の変化の基礎として、また根拠、地盤としてみえてくるであろう。単に己が時代や人心の荒廃、無聊としてではなく、時間というもの、生起というもの、人心というものの根柢としての「すさび」がみえてくるであろう。

 この「時間というもの、生起というもの、人心というものの根柢」としての「すさび」が「つれづれ」という実存の様態である。「すさび」の考察をここまで深め得たのには、唐木が西谷啓治と三木清に親炙し、前者のニヒリズム論と後者のパスカル論をよく咀嚼していたことも与って力があったと思われる。