唐木順三の『中世の文学』のなかの「すさび」論に立ち戻る前に、もう一「曲」、パスカルの『パンセ』の断章を聴いてみましょう。それというも、唐木の「すさび」論のなかにパスカルの『パンセ』における divertissement についての言及があるからです。『パンセ』を読んでおくことが、「すさび」論のよりよい理解とそれに対する批判的考察への視角を開いてくれるはずです。
引用するのは「気ばらし」と題された長大な断章の一部です。原文と前田陽一訳を引用します。
Quelque condition qu’on se figure, où l’on assemble tous les biens qui peuvent nous appartenir, la royauté est le plus beau poste du monde. Et cependant, qu’on s’en imagine accompagné de toutes les satisfactions qui peuvent le toucher. S’il est sans divertissement et qu’on le laisse considérer et faire réflexion sur ce qu’il est, cette félicité languissante ne le soutiendra point. Il tombera par nécessité dans les vues qui le menacent des révoltes qui peuvent arriver et enfin de la mort et des maladies, qui sont inévitables. De sorte que s’il est sans ce qu’on appelle divertissement, le voilà malheureux, et plus malheureux que le moindre de ses sujets qui joue et qui se divertit. (B. 139, L. 136, S. 168, LG. 126)
どんな身分を想像したとしても、われわれのものとなしうるあらゆる利益を集めてみても、王位こそ、この世で最もすばらしい地位である。ところで、国王が彼の受けうるあらゆる満足にとりかこまれているところを想像してみるといい。もしも彼が気を紛らすことなしでおり、そして自分というものが何であるをしみじみと考えるままにしておくならば、そのような活気のない幸福は、彼の支えとはならないであろう。彼は、起こりうる反乱や、ついには避けえない病や死など、彼を脅かす物思いに必然的におちいるだろう。したがって、もしも彼が、いわゆる気を紛らすことなしでいるならば、彼はたちまち不幸になる。賭事をしたり、気を紛らすことのできる彼の臣下のはしくれよりも、もっと不幸になってしまう。
一点だけ注釈を加えます。原文の félicité languissante は「活気のない幸福」と訳されています。岩波文庫の塩川徹也訳もそれを踏襲しています。ただ、これだと両語のほとんど形容矛盾ともいえるような組み合わせの妙がよく伝わらないと思います。形容されている名詞 félicité は、至福、つまりこの上ない幸福のことで、宗教的な意味合いもあります。かたやそれを形容している languissante は、身も心も消尽してしまい、意気消沈しているような状態です。つまり、王位という「至福」の地位あるがゆえに、いっさいの気ばらしなしに自分と向き合わされる王は、他の誰よりもその状態に苦しまされ、誰よりも不幸であろうということです。
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