内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

内側から感じられている〈からだ〉の居場所で自己感は育まれる

2024-10-12 08:56:57 | 読游摘録

 昨日の記事の終わりで予告したように、まず『ケアとは何か』のなかから「自己感」という言葉使われている表現及び文章を拾い上げてみる。

自己感が失われて孤独のうちに閉じ込められる苦痛のモード

〈からだ〉の緊張をゼロにすることが自己感の回復につながるという考え方

〈からだ〉の感覚にもとづく自己感

社会のなかで生きる私たちにとって、一対一の人間関係でつくられる自己感はごく一部であり、そのほとんどは複数の人と共に居る環境で生まれる。

居場所は、自己感が育まれる場所でもある。周囲の人が自分のことを深く知っている場合も知らない場合もあるだろうが、見守りの連続性とあるがままの存在の肯定がそこにはある。

仲間が見守るなかで、語りながらたどっていく自己の歴史の再認識というプロセスが、新たな自己感を生み出す。

ウィニコットは、この「誰かの前で独りになる力」が、自己感の形成にとって非常に大事なステップになると論じた。

 昨日の記事のなかの言及箇所および上掲の引用箇所での「自己感」の用例から帰納的にまず導けることは、自己感は自己一人では形成されえない、ということである。自分独りで自己感を形成することはできない。自己感は他者との共同性を前提とする。孤独あるいは孤立は自己感を喪失した状態である。
 自己感は複数の他者との関係性のなかで形成される。しかし、それは、自己のあり方はつねに他者たちによって規定あるいは制約されているということではない。むしろ他者から見守られている場所に包摂されてこそ、人は自己の〈個〉としての存在を肯定することができ、創造性を発揮することができる。
 自己感は〈からだ〉と不可分である。この〈からだ〉も同書のキーワードの一つだが、〈からだ〉とは、外から観察された身体ではなく、本人に内側から感じられている身体のことで、つねに〈こころ〉と混じり合い、両者の境界は曖昧である。
 この〈からだ〉は、それ自体で実体として存在するものではなく、それが「居る」あるいは「居られる」場所においてはじめて安定的に形成されうる。
 この〈からだ〉において感じられている感情・情念・情動が自己感の内実を成す。これらの内実がそれとしてまるごと生きられかつ表現されうるとき(つまり見守られ表現できる場所があるとき)、自己感は安定的である。ところが、なんらかの内的あるいは外的要因によってそれらが抑圧・否定・無視され表現の場所を失うとき、自己感は不安定化する。表現の場所(つまり居場所)の喪失が決定的となれば自己感は崩壊する。
 端的に言えば、自己感とは、私たちが内側から感じている〈からだ〉のことだ。
 この〈からだ〉についての理解を深めるために、明日の記事では、『ケアとは何か』には登場しない概念 cénesthésie を補助線として導入する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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