内的自己対話-川の畔のささめごと

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夏休みのオンリー・サイテーション・モード(4)「権利の観念は社会的な争いの中心に置かれており、そこでは互いにいかなる隣人愛の色合いも不可能である」― シモーヌ・ヴェイユ「人格と聖なるもの」より

2024-07-15 16:50:44 | 読游摘録

 シモーヌ・ヴェイユの「人格と聖なるもの」は1942年12月から没年である翌年の3月にかけてロンドンで執筆された。ヴェイユ最晩年の論考のうち『根を持つこと』と並んで最重要のものとされる。没年から7年後の1950年12月に『ターブル・ロンド』誌に「人間の個人性、正義、不正義」というタイトルで掲載された。以下は同論考からの抜粋である(括弧内の数字は河出文庫『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』の頁数)。

 奴隷のようにあまりに打撃を受けすぎた人において、悪を課され、驚いて叫びを上げるこの心の部分はけっして完全には死んではいない。ただこの心の部分はもはや叫ぶことができないだけである。この心の部分は、聞きとられることのない、絶え間ないうめきの状態に置かれている。(317)

 悪が課され、心の奥底から発せられる、驚きに満ちた苦渋の叫びは、人格的なものではない。この叫びが湧き起こるには、人格や人格の欲望が攻撃されるだけでは不十分である。この叫びが湧き起こるのはつねに、痛みを通して不正義に触れたという感覚を通してである。(320)

 聖なるものとは、人格であるどころか、人間のうちなる非人格的なるものである。
 人間のうちなる非人格的なものはすべて、聖なるものである。そしてそれだけが聖なるものなのである(320‐321)

 真理と美は、非人格的で無名なもののこの領域に住まわっている。そしてこの領域こそが聖なるものなのである。(323)

 集団に聖なる性格を与えるという誤りが偶像崇拝である。偶像崇拝は、あらゆる時代、あらゆる国に、もっともあまねく広まった犯罪である。(325)

 人格はその本性からして集団に従属している。権利はその本性からして力に依存している。(337)

 聴く耳をもっている人に、「あなたがわたしにしていることは正しくない」と述べるならば、注意力と愛の精神を根源から目覚めさせることができる。だが、「わたしにはこれこれの権利がある」、「あなたにはこれこれの権利がない」といった言葉はそうではない。これらの言葉は、潜在的な闘いを孕んでおり、闘いの精神を呼び覚ます。権利の観念は社会的な争いの中心に置かれており、そこでは互いにいかなる隣人愛の色合いも不可能である。(343)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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