妄念が涌いて仕方がないとき、つまり、涌いてもココチ良くはないときのことだが、見える風景を変えてみる。
要は、外に出てみる。
歩いても脳は働くのであるから。
そうすると、それまでの妄念が角度を変えてくる瞬間がある。
どーにもならないときは、それでも、どーにもならないのであるが。
自分にはインパクトの無い処世術本によくある、「掃除をする」「スポーツをする」などの「典型的なストレス解消術」に効用を見い出したことはない。
エネルギーのある人には効用があるかもしれないけれども。
あまりたいした参考にはならない。
よく森田正馬先生の森田療法に「あるがまま」という字ずらが出てくる。
しかし、いくら言葉を念仏百回読んでも、何もその境地には至れない。
悟るというのは、まったくもって、そういうことではない。
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妄念とは言ったが、妄想でもよいが、イコール悪いものと捉える方がいらっしゃるが、それは質による。
上記の妄念・妄想を、イマジネーションと言い換えると、人びとは容易に納得する。
しかし、そういう世間体で言われる常識と非常識(とは安易な言い方だが、分かりやすくするために、あえてそう言うと)の「はざま」の「なにがしか」にこそ、人間であるからの魂の源がある。
そこにヒントがある。
街を放浪していると、視えるものと視えないものの境目に、裂け目(キャズム)が視えはじめる瞬間がある。
そのことだけは、自分は幼少時代から分かっている。
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今日の空は、いつ雨が降り出してもおかしくないくらいの曇天。
室内に居て、過去のみうらさん&安斎さんのラジオを聞いていたが、それでも悪しき方の妄念ばかりが涌いて止まらない。
「昨日も寒かったしなあっ。。。」とは思えど、ここにとどまること自体が、余計に心身に悪い、と決断する。
お風呂に入って、勢い付けて外に出れば、公園にはかわいいスズメたちのさえずり・タンポポや八重桜やケシが咲き乱れている。
うららかな公園に佇むネコのケンちゃん・キジトラちゃん2号・クロちゃんに、カリカリを与える。
「そうだ、三省堂に行こう」と思い立つ。
最近気になって、どうしても手に入れて読んでみたい本を買いに。
電車にゴトゴト揺られて、久しぶりの神保町。
東京の街は常に変化する。それは、この神保町も同様。
あれほどもったいぶって、室内をうろうろしていたのに、三十余年慣れ親しんだ街で降りれば、カメラのシャッターを切りつつ、ウラ通りに・オモテ通りに・・・とあっちこっちと、直感のみで街を迷走する。
他者にはどーでも良い、自らの魂が起動する。
駅を降りても、こんな具合の自分は、いつも目的地になかなか着かない。
やっと三省堂本店に着いたのは、夕暮れ間近。
サービスカウンターのおねえさんにも聞いてみるが、自分が求めていた本は、系列店舗にはなく、絶版の可能性が濃いという。
少しガッカリして、すずらん通りの方の出口を出る。
少し来ない間に、移ろいゆく街の細かい部分を見やる。
まん前は、文房具の名前発祥地である文房堂。
「ちょっと立ち寄ってみますか。。。」と入ろうとすると、入り口に城戸真亜子さんの新作展示をギャラリーでしていることを知る。
即、4階のギャラリーに向かう。
久しぶりに見る城戸さんの油絵。
描く線のニュアンスは、まさに昔と同じ城戸さんの線。
水を描いた大きなキャンバスの絵画が圧倒的に眼を引く。素敵だ。
大学時代に、デヴィッド・ホックニーに影響を受けて、水の絵を描いていた時期があったが、ホックニーのポップさには無いリアリティ。
城戸さんの線は、最近のラッセル・ミルズと極めて似ていると思えた。
それともう1つのシリーズは、森と川の対比の静寂が占める絵画世界。
それは、カベに描かれた城戸さんの言葉に、自分の中で繋がった。
3・11以降の福島と時間の流れについての散文。
決して単なる同調ではない、本人だけの言葉。
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最近、どこでも外では会話を求める自分は、ギャラリーの男の方に声を掛けてみた。
「20年経っても、城戸さんの線は変わらないですね。良い意味でですが。」
すると、男の方が眼で合図した。
スタッフが入る場所でうつむいてノートに向かっていた事務の方が出てくる。
「むむっ、なんだ、なんだ?」
すると出て来られた女性は、事務のヒトでは無くて、城戸真亜子さんご本人だった。
驚くと共に、気が動転し、顔が紅潮した。
この場には、3人しかいない。
いつの間にか自分は、ハタチ頃の青年に戻っていた。
自分「城戸さんの絵は、喫茶店・古瀬戸の壁画を描くのに苦労されていた頃も通ったし、何とかの自画像(ええい、思い出せない)という本も大事に持っています。絵画展にも行きました。」
城戸さん「『描きかけの自画像』ですね。」
自分「ああ、そう、それです。」
城戸さん「最近も、少しづつですが、絵は描いているんですよ。」
20数年に及ぶ想いは、なかなかクチではなめらかに出てこなかった。
それでも格闘しながら、約20分くらい、目の前でお話しをすることが出来た。
さらには「生意気ですが、もしよろしければ、絵の横で写真を撮らせてもらえないでしょうか?」という希望にも応えてもらい、写真を撮った。
52歳とは思えない、未だ美しい姿だった。
あとづさりをするようにエレベーターに乗る自分に、城戸さんは「毎年、ココで個展開いているから、また来てくださいね。」と言う。自分は深々とアタマを下げて、ドアが閉まった。
二年の浪人で追い詰められ・居場所無くして狂気に至り、一度死んだ頃。悶々としながらこの神保町の人並みに揺れていたハタチ前後の自分。
その二十数年前の青年の自分が、体内で喜んでいた。
「なんで結婚しちゃったんですか、好きだったんですよ」と、つい恋していた青年の自分が言いかけた。全くヤボなことだ。
外に出て呆然と白痴のように、熱にうなされて歩く。
雨がぽつぽつと落ちてきた。
城戸真亜子さんの新作展「静寂の叫び」は、文房堂ギャラリーで4月26日(土曜日)まで見られます。