こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2014年4月20日 日曜日 くらしの風景 ~Happiness Is Happening~城戸真亜子さんの残像

2014-04-20 23:48:37 | スケッチブック

妄念が涌いて仕方がないとき、つまり、涌いてもココチ良くはないときのことだが、見える風景を変えてみる。
要は、外に出てみる。
歩いても脳は働くのであるから。

そうすると、それまでの妄念が角度を変えてくる瞬間がある。
どーにもならないときは、それでも、どーにもならないのであるが。

自分にはインパクトの無い処世術本によくある、「掃除をする」「スポーツをする」などの「典型的なストレス解消術」に効用を見い出したことはない。
エネルギーのある人には効用があるかもしれないけれども。
あまりたいした参考にはならない。

よく森田正馬先生の森田療法に「あるがまま」という字ずらが出てくる。
しかし、いくら言葉を念仏百回読んでも、何もその境地には至れない。
悟るというのは、まったくもって、そういうことではない。

***

妄念とは言ったが、妄想でもよいが、イコール悪いものと捉える方がいらっしゃるが、それは質による。
上記の妄念・妄想を、イマジネーションと言い換えると、人びとは容易に納得する。
しかし、そういう世間体で言われる常識と非常識(とは安易な言い方だが、分かりやすくするために、あえてそう言うと)の「はざま」の「なにがしか」にこそ、人間であるからの魂の源がある。
そこにヒントがある。

街を放浪していると、視えるものと視えないものの境目に、裂け目(キャズム)が視えはじめる瞬間がある。
そのことだけは、自分は幼少時代から分かっている。

***

今日の空は、いつ雨が降り出してもおかしくないくらいの曇天。
室内に居て、過去のみうらさん&安斎さんのラジオを聞いていたが、それでも悪しき方の妄念ばかりが涌いて止まらない。
「昨日も寒かったしなあっ。。。」とは思えど、ここにとどまること自体が、余計に心身に悪い、と決断する。

お風呂に入って、勢い付けて外に出れば、公園にはかわいいスズメたちのさえずり・タンポポや八重桜やケシが咲き乱れている。
うららかな公園に佇むネコのケンちゃん・キジトラちゃん2号・クロちゃんに、カリカリを与える。





「そうだ、三省堂に行こう」と思い立つ。
最近気になって、どうしても手に入れて読んでみたい本を買いに。
電車にゴトゴト揺られて、久しぶりの神保町。

東京の街は常に変化する。それは、この神保町も同様。
あれほどもったいぶって、室内をうろうろしていたのに、三十余年慣れ親しんだ街で降りれば、カメラのシャッターを切りつつ、ウラ通りに・オモテ通りに・・・とあっちこっちと、直感のみで街を迷走する。
他者にはどーでも良い、自らの魂が起動する。









駅を降りても、こんな具合の自分は、いつも目的地になかなか着かない。
やっと三省堂本店に着いたのは、夕暮れ間近。
サービスカウンターのおねえさんにも聞いてみるが、自分が求めていた本は、系列店舗にはなく、絶版の可能性が濃いという。

少しガッカリして、すずらん通りの方の出口を出る。
少し来ない間に、移ろいゆく街の細かい部分を見やる。
まん前は、文房具の名前発祥地である文房堂。

「ちょっと立ち寄ってみますか。。。」と入ろうとすると、入り口に城戸真亜子さんの新作展示をギャラリーでしていることを知る。
即、4階のギャラリーに向かう。

久しぶりに見る城戸さんの油絵。
描く線のニュアンスは、まさに昔と同じ城戸さんの線。
水を描いた大きなキャンバスの絵画が圧倒的に眼を引く。素敵だ。
大学時代に、デヴィッド・ホックニーに影響を受けて、水の絵を描いていた時期があったが、ホックニーのポップさには無いリアリティ。

城戸さんの線は、最近のラッセル・ミルズと極めて似ていると思えた。

それともう1つのシリーズは、森と川の対比の静寂が占める絵画世界。
それは、カベに描かれた城戸さんの言葉に、自分の中で繋がった。
3・11以降の福島と時間の流れについての散文。
決して単なる同調ではない、本人だけの言葉。

***

最近、どこでも外では会話を求める自分は、ギャラリーの男の方に声を掛けてみた。
「20年経っても、城戸さんの線は変わらないですね。良い意味でですが。」
すると、男の方が眼で合図した。
スタッフが入る場所でうつむいてノートに向かっていた事務の方が出てくる。
「むむっ、なんだ、なんだ?」

すると出て来られた女性は、事務のヒトでは無くて、城戸真亜子さんご本人だった。
驚くと共に、気が動転し、顔が紅潮した。
この場には、3人しかいない。

いつの間にか自分は、ハタチ頃の青年に戻っていた。
自分「城戸さんの絵は、喫茶店・古瀬戸の壁画を描くのに苦労されていた頃も通ったし、何とかの自画像(ええい、思い出せない)という本も大事に持っています。絵画展にも行きました。」
城戸さん「『描きかけの自画像』ですね。」
自分「ああ、そう、それです。」
城戸さん「最近も、少しづつですが、絵は描いているんですよ。」

20数年に及ぶ想いは、なかなかクチではなめらかに出てこなかった。
それでも格闘しながら、約20分くらい、目の前でお話しをすることが出来た。
さらには「生意気ですが、もしよろしければ、絵の横で写真を撮らせてもらえないでしょうか?」という希望にも応えてもらい、写真を撮った。
52歳とは思えない、未だ美しい姿だった。

あとづさりをするようにエレベーターに乗る自分に、城戸さんは「毎年、ココで個展開いているから、また来てくださいね。」と言う。自分は深々とアタマを下げて、ドアが閉まった。

二年の浪人で追い詰められ・居場所無くして狂気に至り、一度死んだ頃。悶々としながらこの神保町の人並みに揺れていたハタチ前後の自分。
その二十数年前の青年の自分が、体内で喜んでいた。
「なんで結婚しちゃったんですか、好きだったんですよ」と、つい恋していた青年の自分が言いかけた。全くヤボなことだ。

外に出て呆然と白痴のように、熱にうなされて歩く。
雨がぽつぽつと落ちてきた。





城戸真亜子さんの新作展「静寂の叫び」は、文房堂ギャラリーで4月26日(土曜日)まで見られます。










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2013年10月14日 月曜日 「間借期間」

2013-10-14 23:48:47 | スケッチブック
大竹伸朗さんが、2001年に開いた展覧会「マウスケープ」。
パソコンやITなんかおもろくも何ともねえ、と言う大竹節の中、試しにパソコン上で制作した作品を中心に据えた展示会。
自分も観に行ったが、デジタルの道具作品は期待外れではあった。
やはり大竹さんは、生(ナマ)で触れるモノとの格闘の中でこそ、のヒトと思う。
「理屈抜きで、とにかく、触覚で創り続けるしかない」と思う。
大好きな画家、横尾忠則さんしかり。

そんな中、2002年ごろ、感化された自分も、試しにパソコンでぐちゃぐちゃと作品を作っていた。
放置されたその頃の作品をがさがさ探しながら、約一周前の頃の自分のエネルギーに再会する。
理屈も無いし、見せる他人も居ない中で遊んだもの。

■2002年・自分なりのマウスケープ、あるいは、デジタルスクラップブック■
確実に歳を経れば歳だけは取るが、
しかし、その年の分だけ得た<なにがしか>の智恵で、エネルギーを産み出すこと。
生きている限り、あらゆるものを利用して、体内ガソリンを創り出すこと。
今をしのぎ、生き延びること。
老いている余裕はない。
老いを考えないこと。視野の外に置くこと。

■David Bowie & Brian Eno 「African Night Flight」1979(アルバム「ロジャー(間借人)」より)■
科学などの事実に基づく発見はともかく、文学も芸術に於ける「賞」なぞは、ごく一部の選ばれた作為者が、どう作為を働かせるかだけである。どこぞかの出来レース演出された、オリンピック招致と変わらない。
単純に三流作家にセクトを求め・寄生し続け、文学賞なるモノを貰うか否かを祈る者の絵ヅラのちぐはぐさ。
なあんか違うんじゃないか、としか見えない。
文学も芸術も、資本主義世界で売買される「モノ」では無い。

時代を超えて輝く・素晴らしいもの、あるいは、時代を経て・資本主義構造からやっと離れて、その意味合い・濃厚な発酵を放ち始めるもの。
いずれにしても、現代における「賞」は単なる「SHOW」に過ぎない。
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2013年9月30日 月曜日 「深夜残業」

2013-10-01 01:11:00 | スケッチブック
深夜の帰路を辿ると、ネコさんの集会ポイントで、ずいぶんとみんなに出会う夜である。
花咲か爺さんのように、各所でカリカリを撒く。
なかなか家に辿り着かなかった、ささやかな、宵っ張りネコさんとの深夜残業。

その一方で、火だるまと「まさか」という半期が終わった。
そして、東京は、秋をむかえた。

■ヴァンゲリス 「夢(Reve)」1979アルバム「野生」より■

キジトラさん













ヴァンゲリス


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2013年9月9日 月曜日 「狂気と正気」

2013-09-09 23:03:33 | スケッチブック

昨日午後、寝起きのぼやけまなこ。
無意識にパソコンでニュースを見て、寝耳に水の驚き。
東京壊滅を想い、ひどく落胆。
記事と静止画ショット以外、一切眼・耳を「ウソ八百」にはふさいだ午後。

都庁前でハタを振っている群れどものさまは、ここは一体どこの国の図か?
夢のような・不明に見える撮り方。実にみにくい愚民のショットの形式。
自国が今後いじくり倒されるというのに、ハタを振る者は、戦時中、だまされ続けたモノたちの生き写しであるかのような写真構図。

身近な周囲に聞いても、日頃会う人にも、オリンピックごときに、実際は極めて低い興味しか持っていない。
ためしに友人に話題を振る。。。
「あたかも、国民の期待に応えたかのような偽装報道。いつもの常套手段だよ。
とにかく、やっかいなことに巻き込まれたものだね、お互い。。。」

生活と直結(全一致)しない「スポーツ祭り」にこんな錯覚/ナショナリズム高揚をあおって効果があるのは、国力が低下した国にのみ有効。
自らの意思ではない「お上」が仕掛けた、近隣国とのもめごととのセット販売。

3・11後、放射能不安から、ガイジン観光客が減り、手の裏返したように、出稼ぎ海外アーチストも劇的に減った背景下。。。
それでも、開催地「東京」となったのは、結果的には、前々から決まっていた、と思うのが妥当な線だろう。普通の感覚なら、そう思う。
あたかも、結果がひっくり返ったかのような経過を辿ったが、全部シナリオ通りの演出と芝居。
日本からIOCに相当な金が送られたのであろうし、現在の日本に一層ダメージを与える・闇の経済利権からの決定。

世界に「汚染水?安全です?」と自国民が今まで聞いたこともない、まさに寝耳に水な事を言いのける。これ1つ取っても茶番。
経済効果という真っ赤なウソを言いながら、TPPや増税を安直に進めることが出来るとでも思っているのだろうか?
「今後、良くなるから」とでも言うのか?キチガイ沙汰も、そろそろいい加減にして欲しい。

とは言え、結局は、アメリカという表面上の形式の元締めである「お上」からの指示で、役者としか動けない者たちが、「かわりばんご」で日本の総理大臣を演じているので、三文芝居のおふざけゴッコに過ぎないのは、今更だが。
お上の恫喝に、カツアゲされ続けて、落ちて落ちて、残りカスとなったこのクニから、まださらに「残りカスでも、まだ絞り取れるから、とりあえず手を付けとけ」ということだろうか?

落胆は、時間と共に怒りに変わった。われわれは「かれら」の強要や横暴に、なぜ黙って耐え忍ばねばならないのか?
我慢していることが、バカらしくなってきた。ココは、茶番劇が演じられる「夢の島」=ただのゴミ捨て場、じゃ無いのだから。

昨夜、消灯後、窓の外で鳴く虫の音しかない・暗がりのパソコン。大竹伸朗さんのインタビューを読み直していた。正気を取り戻すために。

『俺は、生きてるあいだに、自分のやりたいことの答えが出るなんて思ってない。
一貫性がないって批判も聞こえるけど、どうでもいいわけよ。
そいつらは、俺の一生に関して、何の保証もしてくれないしさ。
最終的には、自分の気持ちに正直になるってことに行き着くよね。
だから、コンセプトよりも、〔思い〕だよ。』(大竹伸朗)

何も信用ならない時や軸足がブレた時には、つい大竹さんのことを思い出す。
大竹さんだから、言葉が肉体を持っている。大竹さんが言う言葉だからこそ、そこには真実味が強くにじむ。それに感化されると、多少のガソリンが体内に注入され、少しはポンコツ車も亀の歩みを始める。

今日は、出掛けに本棚から取って出た一冊「ネオンと絵具箱」を読み直していた。

■大竹伸朗 「焼憶」■

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2013年8月20日 火曜日・深夜 「なかまたちが無事であることを」

2013-08-21 00:44:52 | スケッチブック

1984年、高校三年生当時。三菱のBOXYのノートを「ランダムノート」と称して、様々なメモなどを付けていた。
毎週土曜日がやってくると、ひそかに隠れてお酒とタバコを居間でやりながら、夜を過ごしていた。
上記は、23時・東京12チャンネルでやっていた「日立サウンドブレイク」より。
深夜、引き込み線に入って、眠ろうとしている電車の映像を速記する。
掛かった映像のバックの曲をメモしながら、一家に一台のテレビの映像を見ながら、瞬間ペンを走らせていた。

■タンジェリン・ドリーム 「ホワイト・イーグル」1982■






tangerine dream - white eagle -
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2013年8月19日 月曜日 「しのぎ・かわすことを祈る欺瞞者の夜」

2013-08-19 22:30:57 | スケッチブック

夏、とは呼べない夏。
詩的なことを語る余裕があるのは、わたしが欺瞞者ゆえ。

かつて四季の中に有った夏は、すでにもう無い。むご過ぎる。
花火は、江戸に住まう人が、一寸でも、暑さを忘れられる時間稼ぎとして編み出したのだろう。全然歴史も調べずに勝手にそう思う。
しかし、2013年のこの時期においては意図を大幅に逸脱している。祭りも同様。
過去と同じ月日に行う必要は無い。逆にありえない。ノイズを発するな、静寂たれ、と、それらから距離をおく。

死を回避するために、冷房とせんぷうきを合い混ぜて使う人間側のじぶんが、のうのうと語る言葉は無い。だがまだマシな方と自己弁護する。

あれほど節電を語っていたが、語るに語れなくなり、311に端を発し、当時は本気であったはずの節電も遠く。今や、安直に信ずれば、死に至る。
形骸化した言語=節電。それでも、移動列車の乗務員は、義務としてかったるそうに、気のない言い回しで車内放送する。

帰り道。歩く。熱帯夜。
それは、細野晴臣さんが創ったトロピカル三部作のような、夢多き世界では、もはや無い。
煌々と夜の中で、必要以上の灯りをたいたドカンとデカイ薬局は、裏側を歩けば、もうもうと排出熱を吐いている。
何もここで買わないと決めた店内には、やる気の無い店員。熱さまし等も売っているが、その様は、自ら占拠地域の気温を上げている自己矛盾。つい、意図的釣り上げ迄想起する。

できるだけ暗い闇の方向へと歩む。
森や緑をどれだけ増やせるか。常々そう思う。

夜の公園の森。虫の鳴く声、揺れる植物。草場に眠る動物たち。
森に暮らす人は、寝苦しそうに草の上で眠る。月がキレイなだけが救いの夜。

ここに、一条の救いの音を添えたいと思う。勝手な・一方的であることを知りつつも、ウソから脱せないじぶん。

(原曲が無いのでカバー)コシミハルさん「キラ」■

この曲を知ったのは、細野さんのラジオ。まだ「デイジー・ワールド(J-wave)」だった頃。
それを録音したものは、どこかに行っている。「源氏物語」の頃の作品。

NHK-FMのサウンドストリートとクロスオーバーイレブンの間15分の番組「ふたりの部屋」。
80年代、椎名誠さんのスーパーエッセイ「気分はだぼだぼソース」、新井素子さんの「二分割幽霊綺譚」「グリーンレクイエム」はリアルタイムで聴いていたものの、「マージナル」というドラマは知らなかった。
このドラマで、コシミハルさんはテーマ曲だけでは無く、出演者となっていた。
パソコン時代のお陰で、数年前YOUTUBEで聞くことが出来た。

上記は、一般の方のカバー。
「オムニサイトシーイング」を想わせる、故・モロさんと細野さんの作品。
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2013年7月29日 月曜日・深夜 「痛む夜を生きつないで」

2013-07-30 00:56:41 | スケッチブック
一年・三六五日、「ロクでもある日」などはほとんど無い。
いい歳を取ると、そんな日などは、ある訳が無い。

よく若い頃は、死にたいと思う日が一年・三六五日であったこともあったが、今思えば実に蒼い。
「なぜ、生きるのか?生きる意味は何か?」は、未だにじぶんの中の少年が尋ねて来ることが無いわけではない。
だが、結論としては「生きる意味なんか無いのだよ」と、言い聞かせる。
それは「死ね」ということとは違う。

「意味」があることなどは少ない。そう言いては、ひたすらノリとハサミで作業を行う。そこにも「意味」などは無い。

【スクラップブック 2013年夏(制作途中)】
「何かをしないと眠りに付けない」クセは、幼児時代から変わりない。
不眠症で、クスリのチカラを借りねばならない根っこは、今に始まった性格では無いのである。
いくら疲れている夜でも、「じぶんの時間」が枯渇すると窒息してしまう「わたし」。

「意味」と「生きる」は別のことである。
いくら痛みを伴おうが、生きられる限り生きるのみである。
人ごときに裏切られようが、そんなものだよ、世の中は。
ニンゲン程度の元来かたちんばの生き物に、甘えた希望は抱かないことである。
■ジャパン 「ゴースツ」(アルバム『ブリキの太鼓』より)1981■







捨てる神あれば、拾う神あり。
帰り道、雨ざらしで落ちていたウサギちゃんを保護する。

ゴミか?宝か?


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2013年6月28日 金曜日 「ぼくは地球を見たことがない。」

2013-06-28 23:58:43 | スケッチブック

ぼくは毎日、まちと言われる、にぎやかなところに行くのが日課。
お散歩とパトロール。
でも、夜には、てくてく歩いて、みんながいる島にもどる。

島はとてもおだやかで、しずかなジャングルみたいな場所。
不思議と、そこに戻ると、気持ちが落ち着く。

夜の島の道を歩いていると、このところ、虫の鳴き声が聴こえてくる。
すれちがうもの。
知っているものも、初めて見たものもいたりする。

ぼーっと、そんな相手を見ていると、夜のなかで静かに佇むものあり、眠るものあり。
みな、お地蔵様のような、おだやかな表情をしている。

この、ぼくたちの島。
それは、見たことがない「地球」という場所の一部なのだろうけども、それは想像しか出来ない。
「地球」には、たぶんたくさんの何かがあるのだろうなあ。

島で出会うなかまから、おはなしを聴くことはあるけれども、「きみは、それを見たことがあるのかい?」と、いつもの茂みで会ったキジトラくんに聞いてみる。
「ぼくも見たことがないんだけど、そんな景色があるんだってさ。」

「ふぅーん。」
キジトラくんの匂いを嗅いで、情報交換をしてわかれた。
そこから、島を、あてどもなく歩いた。

「きょうはココにしよう。」という気に入った場所で、横になった。
地べたが、つべたくて気持ちがいい。
「うん・・・。悪くないなあ。」

草木の匂いがする。
風が吹いてきた。
花が揺れている。

まるで落下していくように、おだやかに意識が薄らいでいくよ。
死んだことはないけれど、死んでいくみたいだ。

ふたたび、目覚めなくても良いかなあ。
べつに。
































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2012月10月5日 金曜日 『お茶の水アートピクニック』の季節

2012-10-05 21:37:42 | スケッチブック


昨日も今日も。。。。昼は、再び、夏のように、皮膚に刺しこむ光の強さ。
気温上昇。
自律神経バランスの置き場所を失ったふらつきとめまい。

とはいえ、夕方になれば、片方でまだ10月のセミが鳴き・もう片方で虫が鳴く涼しさ。
17時には、既にどっぷり日が暮れる。

まるで、季節も何も無い、うずまきのカオスにみちた森。

そこで感覚を掴めない体感不明の汗をかき、
嘔吐を覚え、人を避けた日陰の茂みでうずくまり、
夜には寒さにくしゃみをし・鳥肌をたて・ハナを垂らし。

地球も自分も狂いまくっている。
カオスの森にさまよいて、方角を見失う自分。

そういいながらも、確実に時間だけは刻(とき)をきざみ、
明日・あさってには、愛する街・お茶の水で「アートピクニック」が始まります。


■坂本龍一&ピーター・バラカン 「羽の林で」'84■

(山下達郎:エレクトリック・ギター、ディヴィッド・ヴァン・ティーゲム:パーカッション)



















































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2012年8月21日 火曜日 映画「水の中の八月」

2012-08-21 06:53:13 | スケッチブック
映画つづきのお話しとなる。

この休みに、眠り続けるウニュウニュのVHS-VIDEOの入った段ボール箱を漁っていた。
懐かしい過去の自分の抜け殻。
何年振りかに、眠りから目覚めるVIDEO。



1995年の日本映画「水の中の八月」は、夏なる季節が持つ特有の刹那さが投影されていて、好きだった。
映画VIDEOをレンタルで借りて来て、ダビングして保存して見た「あの日」。
この休みにほこりを取り除き、デッキで見る。
今では、遠くなってしまったかのような、いにしえの夏。




■映画「水の中の八月」サウンドトラックより■

夏の淡い恋、日本的な街の風景、祭り、自然、そして水、生と死。
久遠なるなにがしか。。。
この映画は、どのシーンを切り取っても、絵として成立している。
みずみずしい映像に満ちている。
宮崎勤のようなロリコンとは無縁だが、当時15歳だった小嶺麗奈が美しい。

ストーリーは語らないが、このカットシーンに興味を持った方が居たら、ぜひDVD等を観ることをお勧めします。































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