幼い頃から、十代、二十代、その後、と闇のなかを歩いてきた。
たとえば、高校を何とか出たところで、自分は2年も無職・浪人のときを過ごしていた。そのときには、日々悩みさまよいながら、自分が身を置ける場所がどこにもなかった。カネもなく、安堵できる家や場所も無いから、野外をほつきあるいていた。そんなにも苦しくて現実に身を置けない時代に、自分はいわば家出状態だったのだ。野外で持ち歩ける音楽プレイヤーなども無かった。そんなときには、カラダが勝手に作り出した脳内プレイヤーが活躍した。脳内の想像だけで音楽を再生し、そこに浸るというワザを身につけた。
あれからもう数十年が経った。今ではすぐれたモバイルプレイヤーがある。大してカネを持たない自分でも買えるくらいに安いものが手に入る。
でもいまだに苦しいココロを抱えて生きるのは変わらないから、持ち歩けるラジオとかプレイヤーは毎日欠かせない。毎晩眠れないから、寝る時もイヤホンをして別の世界に身をひたす。そうしないと、味気ない現実に身を侵蝕されて、生きたまま白痴になってしまうようだから。
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”シネマ”ではなく”B-2ユニッツ”でその演奏に初めて出会った鈴木さえ子のソロデビュー作「毎日がクリスマスだったら(I wish it could be Christmas everyday)」は、少女的とも少年的ともいえるかわいらしい世界。
少年的とは、慶一氏が共同制作者だから、たぶんそれがにじみ出てきているのだろう。ほとんどの曲を二人で作っていて、二人のウエディングアルバムともいえる。
このアルバムに収録された曲には好きなものが多い。その中の1曲がアルバムB面最後に入った「朝のマリンバ」。
(歌詞はあるものの)”ほぼ”インストゥルメンタルな曲で、その雰囲気は晩秋にぴったり。この曲の数行の詞は慶一氏のもの。作曲はさえ子ちゃんになっている。
チャイムの音が印象的な曲で、これを掛けてイチョウ並木の下を歩きたい、と1983年からずーっと思ってきた。
《鐘の鳴る秋向きの曲は、いくつかあるけど。。》
できるなら、曲のアタマとお尻をうまく繋げてエンドレスで聴きたい。
先程の話に戻れば、こんな曲を周りの雑音が聞こえなくなるくらいの音量でイヤホンで聴きたい。
エンドレスに鳴り続ける音の世界にどっぷり浸り、鬱に落ちていくココロから飛び出して行きたい。
よく読書家や文学者の方のお話しで、読書で本の世界に入り込んでいるときだけは生きていてもいいと思う、といった話しを聞くことが最近特に多い。そして、この手の話しには、死んでしまいたい気分が毎日基本だが・・という補足が付くことが多い。
その話しにすごく共鳴するし、よくわかる。私もおおよそそんな状況だ。
■鈴木さえ子「朝のマリンバ 」1983■