何てYMOにおいての「BGM」というアルバムは過激なんだろうと、いつまでも思っている。今更ながら。いつまでも。

今まで、自分がこのアルバムに思うことは、いろいろとあって、書き散らしてはきたが、その中の1つの言い方として、このアルバムには様々な「戦い」があるということが、理由として挙げられる。
当時、自分なりの人生と戦っていたかたちんば自身にとっても、そういう意識で、このアルバムを聞いていたし、今だってそうだ。
それが、自分が叩きのめされたときの励みであり、思い返すアルバムである。
黙って「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー 2」を出せば、ミリオンセラーになることが確実などという、現実には余り「ありえない」状況、セールス的には頂点にYMOがある状態で、こういう暗中模索の実験の道に出ようとたくらんだ細野さんの過激さも凄いし、実は、その中を逆風に向かって、3人が歩いていこうとしていたという状況も、自分にとっては凄く刺激・影響を受けた(し、今もそうだ)。
この時点の戦いは、見えない大衆「世間」との戦いであり、誤解との戦いであり、時間との戦いであり、当然現在進行形の見えない音楽世界との戦いでもあり、自分らの次なる着地点を目指すための戦いでもあった。
あと、もう1つは、細野さんと教授の戦いというのがあったことを、今になって、色んな証言から分かってきて、「う~ん」と独り、うなづいていた。
***
当時、1980年のワールドツアーを通じて、疲弊しきった坂本龍一が、神経症(ノイローゼ)に近い精神状態にあったのは事実である。
<実は、一番弱そうに見える幸宏が、一番精神的に強かったんではないか?とこのごろ思ってもいる>
その中で、「BGM」の録音や打ち合わせをすっぽかすようになり、このアルバムは、細野さんと幸宏主導で進んでいた。(その結果が、教授抜きで作った「CUE」)
このアルバムのプロデューサーでもある細野さんは、坂本龍一に、新曲を数曲オーダーしていた。
その中の1曲として「千のナイフ」みたいな曲が1曲欲しいという要求をされていたが、教授はキレて、「なら千のナイフでいいじゃないか!!」ということで、「千のナイフ」のリメイク盤が収まったということらしい。
最初、中学3年生の自分が聴いたとき、「なぜ、千のナイフ?」と思っていたが、真相はそうだったらしい。
***
そして、この「BGM」の「千のナイフ」を今になって聴くと、これは確かに「BGM」というアルバムコンセプト、ニュアンスに沿って作られたのはわかるが、それ以上に、この「千のナイフ」は、実は半分、馬鹿にした態度で作られたのだろうということも感じるようになってきた。というか、うすうすそういう感じは、当初から無意識には思ってはいたが・・。
それは、つまりは「彼ら自身が、YMOそのものを、馬鹿にして、壊す!」作業だったのだろう。それゆえ、過激さを感じるのだろう。「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」で出来てしまったYMOという、彼ら自身でもコントロール出来なくなってしまった「化け物」をぶっ壊す作業だったのだ。
***
この「BGM」における「千のナイフ」はオリジナルがメロディアスでナーヴァスなのに対し、そういった曲の持つフォルムの美しさを粉々にまで壊してしまっている。ノイジーであり、曲の重要だった部分は、全て潰されてしまっている。とっておきは、曲の最後の「ジーーーーー」という終わり方である。
これは、録音の際に、松武秀樹さんが作ったプログラミングのミスで、時間より長くエンディングの部分があったためのものだが、それをカットすることなく、そのスリップしたまま曲として完成形にしてしまったものだ。
「BGM」には、実はこういった要素が随所にちりばめられている。
パチンコ屋でもどこでも至るところでYMOが鳴っていた1980年末、自らのアルバムに「BGM」とタイトルを付けるに始め・・・。
「テクノデリック」も、遺言として自分の棺おけに入れて欲しいほど好きなアルバムだし、素晴らしいが、実は、むしろ音的には穏やかに聞こえる「BGM」の方が、圧倒的に過激なんではないかと自分は思う。
***
今日は、仕事でことごとく会社の役員から罵声を浴び、打ちのめされてしまった、かなりへこんだ夜である。
そんな夜だが、改めて「BGM」を聴きながら、それでも「戦う」意思を持ち続けることを想う。
生きることというのは、イコール=サヴァイヴァル。
どんな状況に叩きのめされても、お盆をひっくり返すように、逆転出来る戦い方はあるのだ、そう思いながら、「BGM」を聴くのだった。
PS:
昔、渋谷陽一が、プリンスを評価した際に言った言葉が、印象的で、急に思い出した。
「いつまでたっても、よく分からないまま生まれ、よく分からないまま死んでいく、、、そういうよく分からない状況に、せめて矢の一刺しでもして死んでいきたい。
そういう強い意思をプリンスの音には感じる。
だから、僕は、プリンスを支持するんです。」
全く同感のことを、僕はYMOに感じます。

今まで、自分がこのアルバムに思うことは、いろいろとあって、書き散らしてはきたが、その中の1つの言い方として、このアルバムには様々な「戦い」があるということが、理由として挙げられる。
当時、自分なりの人生と戦っていたかたちんば自身にとっても、そういう意識で、このアルバムを聞いていたし、今だってそうだ。
それが、自分が叩きのめされたときの励みであり、思い返すアルバムである。
黙って「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー 2」を出せば、ミリオンセラーになることが確実などという、現実には余り「ありえない」状況、セールス的には頂点にYMOがある状態で、こういう暗中模索の実験の道に出ようとたくらんだ細野さんの過激さも凄いし、実は、その中を逆風に向かって、3人が歩いていこうとしていたという状況も、自分にとっては凄く刺激・影響を受けた(し、今もそうだ)。
この時点の戦いは、見えない大衆「世間」との戦いであり、誤解との戦いであり、時間との戦いであり、当然現在進行形の見えない音楽世界との戦いでもあり、自分らの次なる着地点を目指すための戦いでもあった。
あと、もう1つは、細野さんと教授の戦いというのがあったことを、今になって、色んな証言から分かってきて、「う~ん」と独り、うなづいていた。
***
当時、1980年のワールドツアーを通じて、疲弊しきった坂本龍一が、神経症(ノイローゼ)に近い精神状態にあったのは事実である。
<実は、一番弱そうに見える幸宏が、一番精神的に強かったんではないか?とこのごろ思ってもいる>
その中で、「BGM」の録音や打ち合わせをすっぽかすようになり、このアルバムは、細野さんと幸宏主導で進んでいた。(その結果が、教授抜きで作った「CUE」)
このアルバムのプロデューサーでもある細野さんは、坂本龍一に、新曲を数曲オーダーしていた。
その中の1曲として「千のナイフ」みたいな曲が1曲欲しいという要求をされていたが、教授はキレて、「なら千のナイフでいいじゃないか!!」ということで、「千のナイフ」のリメイク盤が収まったということらしい。
最初、中学3年生の自分が聴いたとき、「なぜ、千のナイフ?」と思っていたが、真相はそうだったらしい。
***
そして、この「BGM」の「千のナイフ」を今になって聴くと、これは確かに「BGM」というアルバムコンセプト、ニュアンスに沿って作られたのはわかるが、それ以上に、この「千のナイフ」は、実は半分、馬鹿にした態度で作られたのだろうということも感じるようになってきた。というか、うすうすそういう感じは、当初から無意識には思ってはいたが・・。
それは、つまりは「彼ら自身が、YMOそのものを、馬鹿にして、壊す!」作業だったのだろう。それゆえ、過激さを感じるのだろう。「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」で出来てしまったYMOという、彼ら自身でもコントロール出来なくなってしまった「化け物」をぶっ壊す作業だったのだ。
***
この「BGM」における「千のナイフ」はオリジナルがメロディアスでナーヴァスなのに対し、そういった曲の持つフォルムの美しさを粉々にまで壊してしまっている。ノイジーであり、曲の重要だった部分は、全て潰されてしまっている。とっておきは、曲の最後の「ジーーーーー」という終わり方である。
これは、録音の際に、松武秀樹さんが作ったプログラミングのミスで、時間より長くエンディングの部分があったためのものだが、それをカットすることなく、そのスリップしたまま曲として完成形にしてしまったものだ。
「BGM」には、実はこういった要素が随所にちりばめられている。
パチンコ屋でもどこでも至るところでYMOが鳴っていた1980年末、自らのアルバムに「BGM」とタイトルを付けるに始め・・・。
「テクノデリック」も、遺言として自分の棺おけに入れて欲しいほど好きなアルバムだし、素晴らしいが、実は、むしろ音的には穏やかに聞こえる「BGM」の方が、圧倒的に過激なんではないかと自分は思う。
***
今日は、仕事でことごとく会社の役員から罵声を浴び、打ちのめされてしまった、かなりへこんだ夜である。
そんな夜だが、改めて「BGM」を聴きながら、それでも「戦う」意思を持ち続けることを想う。
生きることというのは、イコール=サヴァイヴァル。
どんな状況に叩きのめされても、お盆をひっくり返すように、逆転出来る戦い方はあるのだ、そう思いながら、「BGM」を聴くのだった。
PS:
昔、渋谷陽一が、プリンスを評価した際に言った言葉が、印象的で、急に思い出した。
「いつまでたっても、よく分からないまま生まれ、よく分からないまま死んでいく、、、そういうよく分からない状況に、せめて矢の一刺しでもして死んでいきたい。
そういう強い意思をプリンスの音には感じる。
だから、僕は、プリンスを支持するんです。」
全く同感のことを、僕はYMOに感じます。
よい文章ですな
このアルバムは、初代ウォークマンが登場したころにリリースされたものだったような。本当によく聴きました。
細野vs.教授の親子喧嘩は、ラジオ番組のデイジーワールドの対談で知ったのですが、そういう実情を知ってると、このアルバムは確かにいっそう味わい深いものになります。
そう、僕もいまでもiPodで聞き続けているアルバムです。しかもYMO唯一コンサートツアーをしなかったアルバムであり、ライブで演奏したのはその後のテクノデリックのウィンターライブでした。DVDを買って見たのですが、ウィンターライブでの教授のMusic Planの演奏は、ものすごく過激で(ヘアスタイルも爆発している)、細野さんという親父を前に反抗している不良少年のようでした。その真ん中で、幸宏氏は人のいい親戚のおじさんのよう。
バルセロナでのスケッチショウ+教授のライブDVDでは、かつてのソリッドなムードはなく、法事で集まった家族、親戚一同のような雰囲気。長い年月の経過を感じます。
親父との対立、上司との対立、政府との対立。さまざまな対立があるけど、そういう状態は、その人を活性化します。そういう見方でこのアルバムを鑑賞することに、僕も賛成です。
しかし、なんで曲の長さがだいたいみんな同じなんだろう?その理由がよくわからない。
でも、一緒に年をとってきて良かった、、、そういう感慨が自分にはありました。
「なんで曲の長さがだいたいみんな同じなんだろう?」
その理由は「時間が無かったので、スケジュールを引いて制作を進めていくため」それが第一だったようですが、それ以外の理由もあります。
これについえは、また今度、自分なりにまとめてみたいと思います。