良い仕事をするには、
美味い物食べて、
似合う物着て、
良い女と付き合う。
これ、うちの代々の、良い物作りになるには?ということの家訓です。
私も、残すということを、考えなければならない年だと思います。
父にしろ、祖父にしろ、その晩年の作というのは目の当たりにしてきています。
しかし、私がその、父と祖父の作に、何か伝えられている事があるかと言うと、
ありません。
ただただ、今の、私では届かない、領域だと感じています。
不思議なことに、二人とも、私が見ている限り、70才を過ぎたころに、それぞれの一番の名作残しているような気がします。
木を知り、人を知り、自然のあり方が分かっているとしか、言いようのない物作りです。
自分が、作る、彫る、というような感じではありません。
ただただ、そこに、その仏像が存在するのです。
今の私の二胡作りは、どうやったら最善の、音色、鳴り、響き。
その追求の一点でしょう。
何時か私も、技術を超え、意思を超えて、唯、鳴る、二胡作れるようになるのでしょうか。
今までの、中国からの二胡、商売の仕方もあるのでしょうが、
かなり、鳴らない、あるいは、雑音だらけのという物が多かったのは、いた仕方ない事なのかもしれません。
最近になって、中国でも、かなり名工と言われる方の、工房物なども出回り始め、
かなりレベルの高い物が、多くなっています。
日本人の、観光客が買う物では無く、演奏する人たちも、多く北京や、上海の二胡屋さんに立ちようようになり、
日本の事情も、かなり中国に知られるようになったことも一つの原因であり、
日本人の、二胡愛好者が、正確な知識を得るようになって、
今まで、唯与えられるという感じの、二胡の販売から、
少しは、選択の余地も出てきたことも、
日本で、二胡販売しようという方たちの、仕入れ方もかなり変わってきたのではないでしょうか。
現実、光舜堂でこの3ヶ月見せていただいた二胡には、それほど多くの雑音も無く、
むしろ調整の仕方が悪く、鳴りが悪いという方が、おおいような気がします。
ただ、やはり今までの二胡のそのほとんどが、第3ポジションより上は、音の響きが少ないのは、今までの構造上いた仕方ないのかもしれません。
そんな中でも、名人と言われる方の作った二胡は、良い皮の張り方で、かなりの効果を得て、
高音も良くでています。
しかし問題が一つあります。
これら、名人と言われる方々が、もう80歳お超える高齢で、次々と仕事辞めているというのが、現状です。
確かに、これらの名人と言われる方は、まるっきり一人で仕事をしていたわけでは無く、
工房というシステムを残されてはいます。
また当然、後継ぎのかたも、おられるのでしょう。
それで、技術は、伝わるのか?ということです。
私には、そうは思えないのです。
これが、作業の相手が、人工的な、強度や、張力が計算できるものなら、問題はありません。
実際には、一枚一枚硬度も、乾燥も油分も違う、木や、
伸びや、厚みや、はずみの違う蛇の皮が相手なのです。
バイオリンや、ギターなど、もちろん同じことが言えます。
量産品でも、バイオリン等は、そこそこ、それこそ雑音などは出ません。
普通にバイオリンの音として、オーケストラなどでも、使えるようなものは沢山あります。
それでも、ソリスト達が使う、ワンランク上の楽器というのは、違う次元にあります。
ところが、二胡の場合は、量産品というのは、雑音があるのが当たり前の世界なのだと思います。
工房物で、一品づつ、手を掛けてやらない限り、雑音の無く、余っくなる楽器というのはあり得ないのです。
なぜならば、量産品は、皮の張り方が、一枚一枚音確かめてという張り方では無く、
また木の部分も、一品づつ、まとめて行くというような作り方はやっていないからです。
バイオリンなんかと違い、量産品と、一品物の落差が、激しいのです。
また、自分で作ってみて解ったのは、
二胡は、感で作るないということです。
木の構造は、問題ありません。
これは、残せます。
ある一定の、油分を含んだ木なら、いってみれば、ホントに、ローズウッドや、黒檀を使ってさえいれば、
そして胴を構成するきが、1枚の木で取られていれば、問題はありません。
問題は、内部の荒らし削り。
これは、音聞きながら、仕上がりの時に、どのくらい変化するかを読みながら、削っていくという、感の世界になります。
もっと言えば、皮は、まるきり、感、というより想像の世界です。
こういう風に鳴るだろうということでしかありません。
これは、いくら経験を重ねても、その想像ということは、変わらないと思います。
経験を重ねれば、皮を張ると木の、手の抵抗感や、叩いた時の音から、考えもせずに出来るようにはなると思います。
ですから、これは、人には伝えられないことなのです。
私が、父や祖父の、晩年の作を見て、伝えられたものは?と考えた時。
なにも無い。
としか言いようがないというのは、このことを考えた時です。
私自身、蛇皮を張るなどというのは、それまで考えたことも無く、
やったことがあるわけでは、ありません。
しかし、皮を張りながら、このくらい、ここはもう少し、
と自然に、手が動いていました、もちろん叩いて音出しながらでは、ありますし。
これでいいのか?もっと?様々に自問を繰り返しではありましたが。
でも結果は、良と出たようです。
私自身が解らないのですから、伝えようがないのは、言うまでも有りません。
祖父が、良く言っていました、
木を見ていれば形が見えて来る、後は彫るだけ。
多分、一番大切なことは、伝えられないのでしょう。
伝えられたのは、物を作る環境を如何に、整えるかという方法論でしかないのかもしれません。
それと、上記の言葉。
もちろん私も残せる物は、それきりありません。
美味い物食べて、
似合う物着て、
良い女と付き合う。
これ、うちの代々の、良い物作りになるには?ということの家訓です。
私も、残すということを、考えなければならない年だと思います。
父にしろ、祖父にしろ、その晩年の作というのは目の当たりにしてきています。
しかし、私がその、父と祖父の作に、何か伝えられている事があるかと言うと、
ありません。
ただただ、今の、私では届かない、領域だと感じています。
不思議なことに、二人とも、私が見ている限り、70才を過ぎたころに、それぞれの一番の名作残しているような気がします。
木を知り、人を知り、自然のあり方が分かっているとしか、言いようのない物作りです。
自分が、作る、彫る、というような感じではありません。
ただただ、そこに、その仏像が存在するのです。
今の私の二胡作りは、どうやったら最善の、音色、鳴り、響き。
その追求の一点でしょう。
何時か私も、技術を超え、意思を超えて、唯、鳴る、二胡作れるようになるのでしょうか。
今までの、中国からの二胡、商売の仕方もあるのでしょうが、
かなり、鳴らない、あるいは、雑音だらけのという物が多かったのは、いた仕方ない事なのかもしれません。
最近になって、中国でも、かなり名工と言われる方の、工房物なども出回り始め、
かなりレベルの高い物が、多くなっています。
日本人の、観光客が買う物では無く、演奏する人たちも、多く北京や、上海の二胡屋さんに立ちようようになり、
日本の事情も、かなり中国に知られるようになったことも一つの原因であり、
日本人の、二胡愛好者が、正確な知識を得るようになって、
今まで、唯与えられるという感じの、二胡の販売から、
少しは、選択の余地も出てきたことも、
日本で、二胡販売しようという方たちの、仕入れ方もかなり変わってきたのではないでしょうか。
現実、光舜堂でこの3ヶ月見せていただいた二胡には、それほど多くの雑音も無く、
むしろ調整の仕方が悪く、鳴りが悪いという方が、おおいような気がします。
ただ、やはり今までの二胡のそのほとんどが、第3ポジションより上は、音の響きが少ないのは、今までの構造上いた仕方ないのかもしれません。
そんな中でも、名人と言われる方の作った二胡は、良い皮の張り方で、かなりの効果を得て、
高音も良くでています。
しかし問題が一つあります。
これら、名人と言われる方々が、もう80歳お超える高齢で、次々と仕事辞めているというのが、現状です。
確かに、これらの名人と言われる方は、まるっきり一人で仕事をしていたわけでは無く、
工房というシステムを残されてはいます。
また当然、後継ぎのかたも、おられるのでしょう。
それで、技術は、伝わるのか?ということです。
私には、そうは思えないのです。
これが、作業の相手が、人工的な、強度や、張力が計算できるものなら、問題はありません。
実際には、一枚一枚硬度も、乾燥も油分も違う、木や、
伸びや、厚みや、はずみの違う蛇の皮が相手なのです。
バイオリンや、ギターなど、もちろん同じことが言えます。
量産品でも、バイオリン等は、そこそこ、それこそ雑音などは出ません。
普通にバイオリンの音として、オーケストラなどでも、使えるようなものは沢山あります。
それでも、ソリスト達が使う、ワンランク上の楽器というのは、違う次元にあります。
ところが、二胡の場合は、量産品というのは、雑音があるのが当たり前の世界なのだと思います。
工房物で、一品づつ、手を掛けてやらない限り、雑音の無く、余っくなる楽器というのはあり得ないのです。
なぜならば、量産品は、皮の張り方が、一枚一枚音確かめてという張り方では無く、
また木の部分も、一品づつ、まとめて行くというような作り方はやっていないからです。
バイオリンなんかと違い、量産品と、一品物の落差が、激しいのです。
また、自分で作ってみて解ったのは、
二胡は、感で作るないということです。
木の構造は、問題ありません。
これは、残せます。
ある一定の、油分を含んだ木なら、いってみれば、ホントに、ローズウッドや、黒檀を使ってさえいれば、
そして胴を構成するきが、1枚の木で取られていれば、問題はありません。
問題は、内部の荒らし削り。
これは、音聞きながら、仕上がりの時に、どのくらい変化するかを読みながら、削っていくという、感の世界になります。
もっと言えば、皮は、まるきり、感、というより想像の世界です。
こういう風に鳴るだろうということでしかありません。
これは、いくら経験を重ねても、その想像ということは、変わらないと思います。
経験を重ねれば、皮を張ると木の、手の抵抗感や、叩いた時の音から、考えもせずに出来るようにはなると思います。
ですから、これは、人には伝えられないことなのです。
私が、父や祖父の、晩年の作を見て、伝えられたものは?と考えた時。
なにも無い。
としか言いようがないというのは、このことを考えた時です。
私自身、蛇皮を張るなどというのは、それまで考えたことも無く、
やったことがあるわけでは、ありません。
しかし、皮を張りながら、このくらい、ここはもう少し、
と自然に、手が動いていました、もちろん叩いて音出しながらでは、ありますし。
これでいいのか?もっと?様々に自問を繰り返しではありましたが。
でも結果は、良と出たようです。
私自身が解らないのですから、伝えようがないのは、言うまでも有りません。
祖父が、良く言っていました、
木を見ていれば形が見えて来る、後は彫るだけ。
多分、一番大切なことは、伝えられないのでしょう。
伝えられたのは、物を作る環境を如何に、整えるかという方法論でしかないのかもしれません。
それと、上記の言葉。
もちろん私も残せる物は、それきりありません。
修行をすれば幹になるところは継承していくのでしょうが、それに加えられた創意工夫など、微妙に変わって伝わっていくのでしょう。
ましてや技術みたいのもなんかは基本的に墓まで持っていくものでしょう。それを如何に受け継ぐか、ブツをみてどう感じて、学び取れるのか、後世の方々の宿題でございます。