春ですね、最近は本当に春が近いのを感じますね。(といいながら、まだ工房は氷が解けていませんが)
隣で、ほぉさんが、スプリングソナタを弾いていますが、、、
こちらの春もまだ、まだ、とおいい感じがします。
ということは、置いておいて!
二胡は歌う楽器です。
歌うように弾きなさいとおっしゃる先生もいらっしゃるでしょう。
もちろんどんな楽器でもそのことは言われます。
歌になってないよ、音楽してないよ。
たとえ、あの階段式の音程のピアノでさえ、そう言われます。
基本的に、弦楽器は、かなり音階音程ということでは、自由度が高いです。
いやいやそんなことはない、きちんと平均律に合わせて弾かなければいけない、と思って言う方も多いでしょう。
かなりめんどくさい話になるので、この平均律のことは、追求しません。
たくさんの音楽学者の方がいろいろ研究しているでしょうから、そちらのサイトを見てください。
あるいはそのようなことを、きちんと学校で勉強した方に聞いてください。
人が歌うとき、
音階だの音程だの、かなり平均律からは外れる場合も多いのです。
簡単な話、一音階をうたうとき、最初のドと最後のドは本当なら(平均律なら)ヘルツでいうと、最初のドの2倍になっていなければいけませんが、
ピアノはそのように調律されるはずです。
しかし人が歌うと高いほうのドは、多少高めになるようなのです、
もちろん訓練されて、きっちり平均律で歌える人は違います。
反対に下がっていった時の、ドの音は、上のドの半分のヘルツでなければいけないのですが、
これがやはり違って少し下がり気味になるほうが自然に聴こえます。
これは人の感覚的な問題、
例えば悲しい曲を弾くとき、少し音が下がって歌う人も多いです。
あるいはここぞというフレーズの最後がかなり下がって引く人歌う人も多いですし、
そのことによってその歌の情感がさらに増したりします。
これはあえて、技術としてわかってやっているプロの方も多いですが、
そんなことを、知らなくとも、普通に、何となくそう歌う人もいます。
明るい歌は高らかに歌いますし、そういうときには人は少し高目の音になるようです。
思い余ってとんでもなく、高くなってしまう方もいるでしょうね。
でも良いではないですか。
歌も二胡も、フレットのないものです。
指をあてれば、きっちりと音程が決まるという楽器ではありません。
二胡にもフレットのついていた時代もありましたし、そういう地方もありました。
でも結局はそのフレットのある楽器は発展しませんでした。
それは人々が、どこの民族であろうと、二胡の音色を活かすには、
フレットなどで固定されないことを望んだからに違いありません。
このことは他の楽器でも同じことが言えるのです。
例えばフルートなど、誰が弾いても同じような音程で同じように平均律と思われるでしょうが、
これが尺八などと同じく、同じ指で押さえていても、
唇のかぶせ方あるいは頭の動かし方で同じ音でも6分の1音ぐらい(人によってはもっと、)
フルートではジャズ以外はあまり見かけませんが尺八の人など良く頭を動かすのは、ご存知だと思うのです。
これ、このこと、体を動かすだけでも、二胡の音程も変わります。
二胡を右に倒したとき、左に倒したとき、誰の耳にも違いが分かるほど音程が変わります。
極端に言うと、棹を強く曲げるだけでも音程は変わるのです。
これはかなりのプロがやることでしょうから、力を入れすぎて棹を折らないでください。
もっというと、
木軸を手で持って上下に振るだけでも音程は変わります。
気持ちを込めて、弓を強く弦に押し付けるだけでも音程も音質も変わりますね。
ですから機械で一定になるように弾ける人でもいないと、二胡の音程が云々とは言いにくいのです。
人は機械ではないので、それほど安定しているわけではないと思うのですよ。
何より、湿度や、風などが当たっるだけでも、皮の緊張力が変わってきて、
きっちり図って印をつけておいたところでも同じ音にはなりにくいのです。
ましてや、私なんかみたいに力仕事をした後では手が震えます。
上手なビブラートとほめられたことがありますが、
単に手が震えていただけなのです、とほほ、、、です。
押し付けすぎていつも不安定になっているのは、どなたですか?
でも感極まって、そうなるのは全然問題ないと思うのですよ。
自由な音程だからこそ、二胡の音色が生きてきてそれが人をひきつけるのかもしれないではないですか。
それより、まずは、一定に弾くこと覚えなければいけないかもしれませんが。
がんばろ!
隣で、ほぉさんが、スプリングソナタを弾いていますが、、、
こちらの春もまだ、まだ、とおいい感じがします。
ということは、置いておいて!
二胡は歌う楽器です。
歌うように弾きなさいとおっしゃる先生もいらっしゃるでしょう。
もちろんどんな楽器でもそのことは言われます。
歌になってないよ、音楽してないよ。
たとえ、あの階段式の音程のピアノでさえ、そう言われます。
基本的に、弦楽器は、かなり音階音程ということでは、自由度が高いです。
いやいやそんなことはない、きちんと平均律に合わせて弾かなければいけない、と思って言う方も多いでしょう。
かなりめんどくさい話になるので、この平均律のことは、追求しません。
たくさんの音楽学者の方がいろいろ研究しているでしょうから、そちらのサイトを見てください。
あるいはそのようなことを、きちんと学校で勉強した方に聞いてください。
人が歌うとき、
音階だの音程だの、かなり平均律からは外れる場合も多いのです。
簡単な話、一音階をうたうとき、最初のドと最後のドは本当なら(平均律なら)ヘルツでいうと、最初のドの2倍になっていなければいけませんが、
ピアノはそのように調律されるはずです。
しかし人が歌うと高いほうのドは、多少高めになるようなのです、
もちろん訓練されて、きっちり平均律で歌える人は違います。
反対に下がっていった時の、ドの音は、上のドの半分のヘルツでなければいけないのですが、
これがやはり違って少し下がり気味になるほうが自然に聴こえます。
これは人の感覚的な問題、
例えば悲しい曲を弾くとき、少し音が下がって歌う人も多いです。
あるいはここぞというフレーズの最後がかなり下がって引く人歌う人も多いですし、
そのことによってその歌の情感がさらに増したりします。
これはあえて、技術としてわかってやっているプロの方も多いですが、
そんなことを、知らなくとも、普通に、何となくそう歌う人もいます。
明るい歌は高らかに歌いますし、そういうときには人は少し高目の音になるようです。
思い余ってとんでもなく、高くなってしまう方もいるでしょうね。
でも良いではないですか。
歌も二胡も、フレットのないものです。
指をあてれば、きっちりと音程が決まるという楽器ではありません。
二胡にもフレットのついていた時代もありましたし、そういう地方もありました。
でも結局はそのフレットのある楽器は発展しませんでした。
それは人々が、どこの民族であろうと、二胡の音色を活かすには、
フレットなどで固定されないことを望んだからに違いありません。
このことは他の楽器でも同じことが言えるのです。
例えばフルートなど、誰が弾いても同じような音程で同じように平均律と思われるでしょうが、
これが尺八などと同じく、同じ指で押さえていても、
唇のかぶせ方あるいは頭の動かし方で同じ音でも6分の1音ぐらい(人によってはもっと、)
フルートではジャズ以外はあまり見かけませんが尺八の人など良く頭を動かすのは、ご存知だと思うのです。
これ、このこと、体を動かすだけでも、二胡の音程も変わります。
二胡を右に倒したとき、左に倒したとき、誰の耳にも違いが分かるほど音程が変わります。
極端に言うと、棹を強く曲げるだけでも音程は変わるのです。
これはかなりのプロがやることでしょうから、力を入れすぎて棹を折らないでください。
もっというと、
木軸を手で持って上下に振るだけでも音程は変わります。
気持ちを込めて、弓を強く弦に押し付けるだけでも音程も音質も変わりますね。
ですから機械で一定になるように弾ける人でもいないと、二胡の音程が云々とは言いにくいのです。
人は機械ではないので、それほど安定しているわけではないと思うのですよ。
何より、湿度や、風などが当たっるだけでも、皮の緊張力が変わってきて、
きっちり図って印をつけておいたところでも同じ音にはなりにくいのです。
ましてや、私なんかみたいに力仕事をした後では手が震えます。
上手なビブラートとほめられたことがありますが、
単に手が震えていただけなのです、とほほ、、、です。
押し付けすぎていつも不安定になっているのは、どなたですか?
でも感極まって、そうなるのは全然問題ないと思うのですよ。
自由な音程だからこそ、二胡の音色が生きてきてそれが人をひきつけるのかもしれないではないですか。
それより、まずは、一定に弾くこと覚えなければいけないかもしれませんが。
がんばろ!