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死刑廃止への招待(第4話)

2011-09-09 | 〆死刑廃止への招待

重大な犯罪ほど社会構造の歪み・ひずみがその温床となっており、犯人個人を死刑に処したところで問題の本質的な解決にはならない

 死刑とは「犯罪者を人類の共同社会と生者の名簿から厳粛に抹消すること」(J・S・ミル)を意味していますが、このような死刑のコンセプトの根底には「社会は常に善であり、悪はすべて犯人の側にある」との考え方(社会性善説)が存在するものと思われます。
 これは「責任」という観点からみると、社会の側に責任を認めず、罪を犯した個人に100パーセントの責任を負わせるという点では「社会無罪説」と呼ぶこともできるでしょう。
 しかし、こうした社会性善説ないし社会無罪説は、犯罪現象の本質をとらえ損ねているように思えてなりません。
 アリストテレスが言ったように、人間とは社会的動物ですから、社会と個人とは、概念上はともかく、現実には分離できないはずです。要するに「人間的本質は、その現実態においては、社会的諸関係の総体である」(マルクス)ということになります。言い換えれば、犯罪現象は社会構造の所産であって、各々の犯罪行為には各時代の社会構造が映し出されているものなのです。

 現代的社会構造の中でも犯罪との関わりで最も中心的なものは、商品経済です。今日、贅沢品から日常の基本的な衣食住に関わる物品・サービスに至るまですべてが商品化され、貨幣と交換でなければ獲得できなくなっています。
 そうなれば、カネのためには殺人さえも辞さないとの考えを助長していくことは必定です。実際、殺人犯罪にも多くの場合、カネがどこかに絡んでいます。強盗殺人は特にそうですが、保険金殺人、身代金目的誘拐殺人、借金をめぐるトラブルからの殺人等々・・・・。
 そして、裁判所の量刑上もこうしたカネにまつわる利欲的な動機による殺人は重くなりがちです。特に強盗殺人罪(刑法240条)は法定刑に死刑と無期懲役刑しか持たない関係上、死刑の公算は高くなります。
 より大きくみれば、商品‐貨幣交換経済、そしてそれの権化としての資本主義経済構造が利欲的犯罪の温床を形成しているのです。
 一方、資本主義経済構造は個人の利己主義的欲望をエートスとして自己を保持しているわけですが、資本主義によって刺激される私利私欲は金銭的欲望のみならず、性の商品化現象とも絡んで、性的欲望のような非金銭的欲望にも及び、フェティッシュな性犯罪の温床を形成することにもなります。ちなみに性的目的の殺人、とりわけ若い女性や児童を被害者とするものは量刑上重くなりがちです。
 また、資本主義経済構造と密接不可分なブルジョワ社会において進行する人間の原子化、社会的孤立化は、直接ではないにせよ、不可解な暴発的暴力犯罪の要因となることも指摘しなければなりません。
 もっとも、1990年代半ばの日本社会を震撼させたオウム真理教教団による化学テロ事件(サリン事件)のようなものになると、社会構造云々とは無関係ではないか、という反論もおありかもしれません。
 これは難問です。しかし、判決で言われたように、同事件は教団に対する民事裁判や刑事捜査を妨害するためのかく乱工作であったという表面的な説明にどれだけの人が納得できるでしょうか。
 筆者はさしあたり、ブルジョワ社会における宗教の私事化傾向をめぐるマルクスの次のような指摘が―完全ではないにせよ―かなりの程度妥当すると考えています。

「いまや宗教は、ブルジョワ社会の精神、すなわち利己主義の領域、万人の万人に対する戦いの領域の精神となった。宗教はもはや共同性の本質でなく区別の本質である。宗教は共同体からの、自分と他の人間からの、人間の分離の表現となっている―宗教はもともとそのようなものだったのである。もはや宗教は、特殊な倒錯、私的妄想、気まぐれの抽象的な告白にすぎない。」(城塚登訳―訳文一部変更)

 もちろん、こうした一般論に加えて、バブル経済崩壊に伴う高度経済成長時代の完全な終焉、それに引き続く「失われた十年」の只中に当たった90年代半ばという時期にオウムのような宗教反動勢力が台頭し、理科系高学歴者を含む多彩な青年層を惹きつけ、しかもその集団がテロリズムへと暴走していったことの関連が分析されなければなりませんが、オウム論は本連載の主題を超えるため、詳論は避けます。

 ところで、このような犯罪と社会構造との関連を重視することは、個人の犯罪実行責任を否定することを意味していません。単純に「社会が悪い」として、犯罪を「社会のせい」にすることとは違います。
 むしろ、個人が犯罪実行責任を負うべきことは否定されないまでも、100パーセントの責任を個人に押し付けるのではなく、社会も犯罪に対して相応の「責任」を引き受けるべきことを意味しているのです。
 このことを標語的にまとめると、「手を下したのは個人、背中を押したのは社会」と表現することができます。言い換えれば、個人には犯罪実行責任があるが、社会には犯罪誘発責任があるということです。
 前回指摘したとおり、重大な凶悪犯罪を犯した人ほど、苦難の人生を歩んできた社会的困難者であり、社会はどこかでその人のSOSを受信して救出し得べきであったのですが、かえって犯罪の方向へ背中を押してしまったのです。
 もっとも、犯罪誘発「責任」といっても、社会そのものを罰することは不可能ですから、ここで言う「責任」とは、まず何よりも公的責任において罪を犯した人の矯正・更生を図ることです。これは要するに、死刑でなく矯正施設での矯正プログラムや出所後の更生のサポートを徹底して充実させることを意味しています。
 犯罪誘発責任のもう一つの重要な内容は犯罪被害者に対する関係でも、社会は「責任」を負うべきであるということです。すなわち、社会は元来、犯罪の発生を防止する責務を負っていますが、それにもかかわらず犯罪を誘発して被害を引き起こしてしまったに対して「責任」を負わねばならないのです。
 具体的には、犯罪被害者及びその家族・遺族に対する公的な補償、心身のケアなどの無償サポートといった施策を高度に充実させることです。死刑はしばしば「被害者のため」という目的論を伴うことがありますが、犯人を殺したところで、被害者側に生じた経済的・精神的被害の実質的な回復につながるわけではありません。
 死刑によって犯人を人類社会から永久に抹消することは、結局、社会が上記のような犯罪誘発責任を果たすことを回避し、事件に永久にふたをしてしまうことにほかなりません。
 オウム事件では、事件発生から20年近くを経て、すべての事案で最高首謀者と認定された教祖をはじめ、事件に関わった教団幹部らに次々と死刑判決が確定していっています。
 当局としては、事件の主犯者級に対する「全員処刑」をもって、事件の“最終解決”としているように見えます。しかし、それによって得られるものは何なのでしょうか。よくよく考えてみる必要がありそうです。

 ここで少々品の良くないたとえ話を披瀝してみたいと思います。題して「ゴキブリ理論」。
 いま仮に皆様のお宅にゴキブリがよく出没するとします。そこで対策として大量の殺虫剤をまとめ買いしてかれらが顔を出したつど殺虫剤で殺してまわります。ご経験がおありかもしれません。こういう行動は果たして合理的なのでしょうか。
 ゴキブリがあまりに多いとしたら、皆様のお宅がゴキブリの餌場と化しているのではないかと疑い、一度大掃除してそもそもゴキブリが大量発生しないようにする方が、殺虫剤を大量に使用するよりも合理的ではないでしょうか。
 このたとえ話のゴキブリを「犯罪」に、皆様のお宅を「社会」に置き換えてみると、本稿で筆者が述べようとしたことのまとめとなります。
 ところで、社会の「大掃除」の究極には、そもそも犯罪の温床となる社会構造そのものの変革、すなわち社会革命ということが視野に入ってきます。これについて多くを語ることはできませんが、ここでは再びマルクスの次のような提案を引いて締めくくっておきましょう。

「たくさんの犯罪者を処刑することによって、ただ新しい犯罪者を作り出す余地を与えるにすぎない死刑執行人をほめるかわりに、このような犯罪を培養する社会体制の変革についてとくと思案する必要がありはしないか?」(大月書店版全集訳)

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