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死刑廃止への招待(第5話)

2011-09-17 | 〆死刑廃止への招待

死刑廃止は確立されつつある国際法上の規範である

 死刑廃止論の側からは、従来「死刑廃止は国際的潮流だ」ということがしばしば強調されてきました。たしかに、1990年代以降、死刑廃止国が増加し、それ以前は死刑廃止国といえばほとんどが西欧と南米に集中していたものが、東欧からアジア・アフリカ諸国にも広がりを見せ始めています。
 しかし、その「潮流」なるものが単に流行のモードのようなものにとどまるならば、あえて流行に乗らないということも一つの流儀ですので、死刑廃止の積極的な理由とはならないでしょう。
 では、この「潮流」とは何かといえば、それは死刑廃止が国際法の中に取り入れられ、国際法上の規範として確立されつつあることによって法的に促進されてきている「潮流」なのです。

 そのきっかけをなしたのが、1989年の国連総会で採択され、91年に発効した「死刑の廃止をめざす市民的及び政治的権利に関する国際規約の第二選択議定書」(以下、通称で「国連死刑廃止条約」という)でした。
 この条約はこれより先、1966年の国連総会で採択され、76年に発効した(日本は79年に批准)「市民的及び政治的権利に関する国際規約」(以下、単に「自由権規約」という)の改正法として採択されたもので、元来自由権規約では締約国に死刑廃止を直接に義務付けず、単に死刑の限定的なかつ公正な適用を義務付けるにとどまっていた態度を改め、議定書締約国に正面から死刑廃止を義務付けたところに意義があります。
 ただ、自由権規約では死刑廃止を直接に義務付けていないとはいえ、6条2項で「死刑を廃止していない国においては」死刑を限定的かつ公正に適用すべきことを求め、なおかつ同条6項で「この条のいかなる規定も、この規約の締約国により死刑の廃止を遅らせ又は妨げるために援用されてはならない。」との注意規定を置き、すでに死刑廃止を意識した消極的死刑存置の立場を示していたのでした。
 この点、国連死刑廃止条約の前文は、自由権規約6条が「その望ましさを強く示唆する文言で死刑廃止に言及している」と指摘しています。従って、ここから死刑廃止を明確にした選択議定書まではそう遠い距離でもなかったのです。
 日本政府はこの条約の審議過程からイスラーム諸国などと並んで強く抵抗し、採択に際しても反対票を投じていますが、同条約は国連総会で賛成多数をもって採択されました。
 ちなみに、日本では同条約が採択された89年から93年にかけて3年4ヶ月間ほど死刑執行が休止していたのですが、93年3月に執行を再開し、その後も国連からのたび重なる死刑廃止の勧告を拒否して、毎年死刑執行を継続する数少ない国の一つとなっていることは序文でも指摘したとおりです。
 ところで、日本国憲法98条2項は「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。」と定めています。この規定によると、政府が締結していない国際法でも、「確立された国際法規」については誠実に遵守する義務があることになります。そこで、もし国連死刑廃止条約が憲法98条2項の「確立された国際法規」に当たるとすれば、日本政府が同条約を無視して死刑執行を続けることは自国の憲法にも違反することになります。
 しかし、残念ながら、死刑廃止条約はまだ「確立された国際法規」には当たらないと解されます。同条約は発効から20年程度の比較的新しい条約であり、締約国数も2011年現在、まだ百の位に達していないからです。
 とはいえ、全く未確立のマイナー条約かといえばそうではありません。すでに死刑廃止の原則ないし理念は国際法レベルでは撤回が考えられない重要な人権準則となっており、条約締約国数も年々増加してきています。
 より注目すべきは、死刑存置国(米国の死刑存置州を含む)にあっても、長期間全面的に死刑執行を停止している国(死刑執行停止国)が増加していることです。こうした傾向は、序文でも触れたように、2007年以降、国連総会がほぼ連年で死刑執行停止を呼びかける決議を採択していることによってさらに促進されていくでしょう。
 以上のような「潮流」からすると、死刑廃止条約はまだ完全な確立を見ていないものの、「確立されつつある国際法規」であるとは言えるところまで来ていると考えられます。従って、微妙ではありますが、完全に確立されていないからといって、条約を完全に無視してよいというわけにはいかないのです。
 実際、日本はまぎれもなく国連加盟国であり、自由権規約締約国としても30年以上が経過しています。そうであれば、その同じ自由権規約の改正法としての意義を持つ死刑廃止条約についても、批准に向けた政治的・社会的な努力を継続すべき国際的な責務があると言えます。
 従って、条約を批准するかどうかは各国の主権の問題に属するという、それ自体としては誤りでない原則論を金科玉条として条約を無視し、それに刃向かうかのように死刑執行を継続することは主権の濫用と言わざるを得ないように思われます。

 では、ここで国連死刑廃止条約の内容を簡単に見ておきましょう(以下、阿部浩己教授訳による)。
 まず条約の最大の特徴は、死刑廃止を二段階に分けていることです。すなわち「この選択議定書の締約国の管轄内にある何人も、死刑を執行されない。」と定める条約1条1項によると、締約国はまず第一段階として、その管轄内での死刑執行を全面的に停止すること(死刑執行モラトリアム)が義務付けられます。然る後に、第二段階として、同条2項で「各締約国は、その管轄内において死刑を廃止するために必要なあらゆる措置をとる。」ことが義務付けられるのです。こうした二段階方式は、条約締約国に即時の死刑廃止を求めるのではなく、死刑廃止へ向けたプロセスを促進することを求める趣旨です。
 もちろん、二段階といっても、第一段階の死刑執行モラトリアムを実現した後、長期間死刑廃止のために必要な措置をとらずに放置することは許されませんが、最終的な死刑廃止まで一定の時間的なゆとりを持たせることは認められるわけです。その点で、同条約は各国の実情にも配慮された内容となっています。
 いくぶん論争の余地があるのは、条約2条で「戦時中に犯された軍事的性質を有する極めて重大な犯罪」に関しては戦時に死刑を適用することを例外的に許容していることです。この戦時の軍事的重大犯罪とは何を意味するかあいまいですが、例えば戦時のスパイ罪や反逆罪などがこれに該当するようです。
 しかし、平時以上に死刑制度が濫用されやすい戦時におけるこうしたあいまいな要件による死刑の許容は、たとえ例外的とはいえ、条約の重大な問題点とみなされます。
 ただし、この規定は条約批准時または加入時に特別の手続きに従って留保した場合に限って適用されるもので、留保しない限り、締約国は平時・戦時を問わず、あらゆる犯罪について死刑を廃止することが求められます。
 従って、この条約2条の存在をもって、国際法上死刑廃止は要請されていないなどと強弁することはできません。たとえ同条項を留保するとしても、最も一般的な死刑相当犯罪である殺人罪に関しては死刑廃止が義務付けられている事実にも変わりありません。

 ところで、日本が関わりを持つ死刑廃止条約がもう一本あります。それは「欧州人権及び基本的自由の保護条約」(以下、「欧州人権条約」と略す)です。欧州の一員ではない日本がなぜ欧州人権条約に関わりを持つかといえば、日本は1996年以来、米国などとともに欧州評議会のオブザーバー国に迎えられているからです。
 欧州評議会とは、欧州連合(EU)とは別に、人権、民主主義、法の支配といった価値観の促進と加盟国間の協調拡大を目的として設立された1949年以来の歴史を持つ欧州の国際機関です。この評議会では1994年以来、死刑廃止を加盟条件として課していますが、それに伴い、オブザーバー国に対しても死刑廃止を要請するようになってきたのです。
 かねて欧州人権条約では、欧州評議会が1982年に採択した第6議定書により死刑廃止を規定してきましたが、この議定書では「戦時又は差し迫った戦争の脅威があるとき」に犯された犯罪に対する死刑を存置しており、先の国連死刑廃止条約と類似の例外を許容しています。
 しかし、2002年に改めて採択された同条約第13議定書では、戦時を含めたあらゆる状況下での死刑廃止を規定しました。これは国連の条約よりも進んだ画期的な全面的死刑廃止条約の到達点となっています。
 これに先立つ2001年、欧州評議会議員会議は、同評議会オブザーバー国である日本と米国に対し、死刑執行の停止と死刑廃止に必要な段階的措置をとること、死刑囚監房の人権状況を改善することを要請し、2003年1月までに要求事項の著しい進展が見られなければ、同会議は両国のオブザーバー資格に異議を唱えるという決議をしたのです。
 このような西方からの思わぬ要求を内政干渉とみなす向きもあり、事実、日本政府は強く反発したようですが、欧州評議会のオブザーバー国となっている以上、欧州からの申し入れを単純に内政干渉として片づけるわけにはいきません。
 もちろん、日本は欧州人権条約を直接に批准すべき立場にはありませんが、欧州評議会のオブザーバー資格を返上するのでない以上、日本も欧州の言わば準メンバー国として欧州の人権政策に対する理解と協力を要請される立場にあります。従って、日本が欧州人権条約の趣旨を尊重して死刑廃止へ向けた努力を開始することは、欧州とのパートナーシップという自ら選択した外交政策の針路でもあるのです。
 ちなみに、日本と同様に欧州評議会のオブザーバー国である中米のメキシコは、2005年に死刑を全面的に廃止しています。

 以上のように、現在、日本ははっきりと当事者性を有する国連死刑廃止条約と、それに次ぐ準当事者性を有する欧州人権条約と二本の国際法に基づいて死刑廃止を勧告されるに至っています。
 これまでのところ、日本政府は「国内世論」を楯に取って一切耳を貸さない強硬な態度を貫いていますが、そのことは国内的には何ら問題にされないとしても、国際的には日本国及び日本国民の信望を著しく損ねることになりかねないということを私どもは認識すべきではないでしょうか。

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良心的裁判役拒否(連載第5回)

2011-09-17 | 〆良心的裁判役拒否

理論編:裁判員制度の仕掛けを見抜く

第3章 審理・評決法の欠陥

(1)糾問裁判への回帰
 あなたや私が被告人であったとして、裁判員のメンバー構成にはほとんど期待できないとしても、審理・評決法がそれなりに練られたものであれば、そこに一縷の望みをかけてもよいでしょう。しかし、そんな望みもあっさり打ち砕かれてしまうほど、裁判員制度は肝心要の審理・評決法に関しても欠陥を抱えているのです。
 まず審理法に関する最大の問題は、戦後司法改革の最大成果として憲法・刑事訴訟法の大原則となっている当事者主義の訴訟構造を大きく改変・制約してしまっていることです。
 当事者主義は、冤罪や不当な厳罰を防止すべく、戦前の裁判所主導の権威主義的な糾問裁判の方法を改め、とりわけ被告人の防御的弁論権(黙秘権を含む)を保障するところにその主眼があります。そのために、当事者主義の審理は裁判所側による被告人訊問(質問)ではなく、検察側と被告・弁護側の対論を軸に展開されていくことが基本となります。
 しかし、たくさんの争点をめぐって当事者間で対論していたら、裁判員制度が狙う数日というような超短期審理はとうてい実現しませんから、「争点を絞らせる」という名目で、新たに「公判前整理手続」なる制度を刑事訴訟法上に新設し、裁判員裁判の対象事件については必ずこの手続を経るものとし、ここで実質的な先取り審理をしてしまおうとしています。
 この手続では証人尋問を含む一定の証拠調べまで予定されているため、単なる公判準備手続の域を超え、実質的な「予備審理」の性格を持っています。にもかかわらず、この手続は完全非公開で行われるため、被告人の公開裁判を受ける権利を保障する憲法37条1条に違反する疑いも生じてきます。
 そればかりではありません。こうして非公開審理で半ば方向性の決まった事案をおもむろに裁判員裁判にかけたうえ、今度は裁判員による被告人質問を大幅に取り入れた審理をするのです。
 先に述べたように、当事者主義の審理では当事者間の対論が軸で、裁判官であれ、裁判員であれ、裁判者側の被告人質問は例外的・補充的なものにとどまります。一方、被告人には包括的な完全黙秘権が保障されています(刑事訴訟法第311条1項)。実際、裁判員法上も、裁判員による被告人質問は「刑事訴訟法第三百十一条の規定により被告人が任意に供述する場合には」という限定の下、例外的に認められているにすぎないのです(同法59条)。
 ところが仄聞するところによると、裁判員裁判では裁判員全員が被告人質問を繰り出すことが常態化しているようです。中には、相当に追及的・攻撃的な質問を向ける裁判員も存在するようです。もちろん、被告人は黙秘権を行使して応答を拒否できますが、「本当は犯人だから/反省していないから沈黙している」という印象を与えることになりかねません。
 ちなみに、裁判員裁判では裁判官と裁判員が全員、被告人の正面の法壇に横一列に着席する配置をとっていますが、原則形態では裁判官3人、裁判員6人の合わせて9人もの人間がズラリと法壇に並んで被告人を見下ろすという構図自体も威圧的で、当事者主義にふさわしいものではないように思われます。
 以上のような裁判員裁判の審理法を見ると、それは当事者主義の原則を逸脱し、旧式の追及的な糾問裁判へ回帰しようとしているとしか言いようがありません。しかし、これも裁判員制度が「犯罪との戦い」という法イデオロギーに沿って重罪裁判で迅速な厳罰を下すことを狙った特例的制度であると理解するなら、十分にうなずける意図的な「逸脱」なのです。

(2)奇数・僅差評決法の問題性
 裁判員制度は、最終的に判決の内容・結論を決める評決法にも重大な欠陥を抱えています。それは裁判官と裁判員を合わせた奇数人員(原則9人、例外5人)で、なおかつ単純多数決によるわずか一票差(5:4または3:2)の僅差判決で有罪・死刑判決まで出せるように仕組まれていることです。
 このように非常に安易な評決法が採られているのも、もう容易に想像がつくように、最短期間で評決に達することで迅速な処罰を可能とするためにほかなりません。
 しかし一票差などというものは、メンバー構成が一人違っていただけでも全く正反対の結論に転んだかもしれない可能性が高い点で、裁判の評決としては全く信頼の置けないものです。
 その点を考慮してか、裁判員法は多数意見に必ず最低一人は職業裁判官(及び裁判員)が加わっていなければならないと定めているので(同法67条1項)、例えば有罪意見5人、無罪意見4人となった場合に、多数派5人全員が裁判員であったときは、一転して多数決ならぬ「少数決」によって無罪の結論となるのです。
 このようないささかわざとらしい変則的な規定をもってしても、僅差評決の問題性は解消されないでしょう。なぜなら、職業裁判官が一人加わったからといって、それだけで僅差の多数意見の正当性が増すわけではなく、評議が十分に煮詰まらない間に一票差で結論を出してしまう安易さに変わりないからです。
 もっとも、職業裁判官の裁判でも3人の合議で2:1の一票差評決をしているわけですが、9人制で2:1の比率に相当するのは6:3です(5人制の場合は2:1に分けることが数学的にできないので、4:1とするしかない)。6:3は9人制では特別多数決の最低ラインですから、せめてこれくらいの規準は定めておくべきなのに、それすらしようとしないのは、裁判員制度がどこまでも迅速さを至上命題としていることの表われです。
 本来からいけば、有罪評決や死刑評決のように、被告人の運命を決定づけるような評決をするには全員一致制を定めておくのが真摯な立法態度ではありますが、こと裁判員制度に関する限り、そんなことを期待するのは無駄のようです。

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