前回の末尾で、戦後日米関係において、原爆を投下して叩き潰すほど憎かった日本を戦後は一貫して庇護し続ける米国側心理の分析を予告しておいた。
これについてはまず、「ストックホルム症候群」と対照される「リマ症候群」が想定できるかもしれない。リマ症候群はストックホルム症候群とは逆に人質監禁等の加害者側が被害者の人質等に親近感を抱くようになる心理であり、「症候群」とはいうものの、必ずしも病的な反応ではない。
これは一般に、監禁等の加害者側の人数が被害者側よりはるかに少なく、加害者側が知的な面で被害者側より劣勢であるような場合に好発するとも言われるが、占領中、米軍関係者はもちろん日本国民よりはるかに少なく、兵士の多くは低学歴者で、当時から比較的啓発され、礼儀正しい日本国民への親近感や畏敬が生じても不思議はない。
こうして米国は7年の占領統治の間、日本に駐留した米軍人たちの見聞を通して日本に対する偏見を解き、親近感をも持つようになっていった。
それだけのことなら、単なる友好国で終わるだろうが、占領終了後も日本を衛星国に付けて半永久的に日本を庇護するのはなぜだろうか。極東地域における米国のプレゼンス云々という政治的な説明を抜きにすれば、原爆投下に対する罪悪感の沈潜を想定することができるのではないだろうか。
米国では今日に至るまで、「原爆投下は無駄な抗戦を続ける軍国日本を降伏させ、戦争を早期に終結させるために必要な正しい政治決断であった」というのが通念であり、原爆投下の反人道性を自己批判したり、公式に謝罪したりすることはタブーとされている。
だが、米国人も総体としては決して情性欠如のサイコパスではないからして、原爆投下による大量殺戮を心底正当化しているとは考えられない。公式には口にできないために抑圧隠蔽された罪悪感が深層に蓄積しているのだ。
そうした深層心理的な罪悪感が、日本の変わらぬ忠誠心への好感と相乗して、日本に対する一貫した庇護的態度を支えている―。そのような仮説を立ててみたい。
ただ、このように両国ともに原爆投下という反人道的事象を半世紀以上も引きずりながら続けられているいささか症候的な忠誠と庇護の関係がいつまで続くかは、予断を許さない。原爆投下も遠い歴史的過去のこととなれば、また違った関係性が生まれてくるかもしれない。
その場合、どちらかと言えば症候的心理よりも戦略的な思惑の強い米国側から先に変化するだろう。今般首脳会談後に発せられた「不動」「強固」「希望」等々の演出的な美辞麗句の裏で、どこか冷めた感情もすでに働き始めているようには感じられないだろうか。