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晩期資本論(連載第44回)

2015-05-18 | 〆晩期資本論

十 剰余価値から利潤へ(3)

・・・・労働日の延長は、超過労働時間が支払われている場合にも、またある限界までは、超過労働時間が標準労働時間より高く支払われる場合でさえも、利潤を高くするのである。それゆえ、近代的な産業体制では固定資本をふやす必要がますます大きくなるということは、利潤をむさぼる資本家にとっては労働日の延長への主要な刺激だったのである。

 利潤率を高める最も単純な手っ取り早い方法は、労働時間の延長、言い換えれば絶対的剰余価値の増大である。この理は晩期資本主義でも変わらないがゆえに、資本家は労働時間規制の緩和を追求し続ける。

剰余価値が与えられていれば、利潤率を高くするためには、商品生産に必要な不変資本の価値の減少によるほかはない。

 絶対的剰余価値の増大にはしかし、自ずと限界がある。そこで、剰余価値がある一定とすれば、不変資本の価値を節約することが、利潤率の上昇につながる。利潤率は剰余価値mを不変資本cと可変資本vの総和で割った商であったから、仮にc=0であれば、利潤率は飛躍的に上昇することはみやすい道理である。
 このような不変資本の節約の仕方としては、不変資本を生産する労働の節約による方法と、不変資本の充用そのものの節約による方法とがある。すなわち―

一つの資本がそれ自身の生産部門で行なう節約は、さしあたり直接には、労働の節約、すなわちそれ自身の労働者の支払労働の縮減である。これに反して、前に述べた節約(不変資本の充用そのものの節約)は、このような他人の不払い労働のできるかぎりの取得を、できるかぎり経済的な仕方で、すなわち与えられた生産規模の上でできるだけわずかな費用で、実行することである。

 マルクスは、このうち後者の不変資本の充用そのものの節約について、「大規模生産が資本主義的形態ではじめて発展するように、一方では狂暴な利潤欲が、他方では商品のできるだけ安い生産を強制する競争が、このような不変資本充用上の節約を資本主義的生産様式に特有なものとして現われさせ、したがって資本家の機能として現われさせるのである。」と指摘して、これに特に焦点を当て、その複数の方法を個別に検討している。実際、資本制企業が成功する秘訣は、この方法による節約をいかに効果的に組み合わせて高い利潤率を確保するかにかかっていると言ってよい。

資本主義的生産様式は、矛盾をはらむ対立的なその性質によって、労働者の生命や健康の浪費を、彼の生存条件の圧し下げを、不変資本充用上の節約に数え、したがってまた利潤率を高くするための手段のうちに数えるところまで行くのである。

 不変資本充用上の節約の第一の方法は、「労働者を犠牲にしての労働条件の節約」である。マルクスは「およそ資本主義的生産は、ありとあらゆるけち臭さにもかかわらず、人間材料についてはどこまでも浪費をこととする」と断じている。
 ただ、現代の資本主義先進国では、労働安全基準法の規制によりこうした節約は一応禁止されているが、しばしば違反事例が発覚する。日本のアスベスト問題なども、政府の不作為も絡んだこの種の深刻な一例である。また労働ストレスや過労死もこうした「人間材料の浪費」の結果であり、「それ(資本主義的生産)は、ほかのどんな生産様式に比べてもはるかにそれ以上に、人間の浪費者、生きている労働の浪費者であり、肉や血の浪費者であるだけではなく、神経や脳の浪費者でもある」。

・・・ここですぐにさらに思いださなければならないのは、機械の不断の改良から生ずる節約である。

 不変資本充用上の第二の節約法として、技術革新による固定資本の低廉化が挙げられる。マルクスは「発動、伝導、建物の節約」という節題のもと、ある工場監督官の報告を引用して叙述に代えているが、資本にとってはこの方法が最も真っ当な節約方法の一つである。
 ちなみに、マルクスは最後に四つ目の節約法として「発明による節約」を挙げているが、発明は技術革新の契機となる精神的な所産であるから、技術革新に絡めてとらえてもよいであろう。ただ、ここでの節約は「およそ新たな発明にもとづく事業を経営するための費用は、後にその廃墟の上にその遺骨から起こされる事業の場合に比べればずっと大きい」という後発利用者の節約利益という形で現れる。
 そのため、「最初の企業家たちはたいてい破産してしまって、あとから現われて建物や機械などをもっと安く手に入れる企業家たちがはじめて栄えるということにもなる」が、そうした事態を防ぐため、現代では特許制度が確立され、発明企業家が特許利益を確保できるようにされているわけである。

資本主義的生産様式の発達につれて生産と消費の排泄物の利用範囲が拡張される。

 マルクスはこのような生産・消費の過程で出される廃物を「生産上の排泄物」と呼び、「生産上の排泄物、いわゆる廃物が同じ産業部門なり別の産業部門なりの新たな生産要素に再転化するということ」を不変資本充用上の節約の三番目に挙げている。
 大量生産・大量消費の晩期資本主義では、「このいわゆる排泄物が生産としたがってまた消費―生産的または個人的―の循環のなかに投げ返される過程」すなわちリサイクルが、「環境保護」の体裁の下に一個の産業分野として確立、拡大されている。これもまた人間材料の浪費と並ぶ物質材料の莫大な浪費を通じた、利潤率上昇のための一つの節約法なのである。

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