第三部 不真正ファシズムの展開
5‐3:インドネシアの「ゴルカル」体制
インドネシアは、戦後の独立後、独立運動指導者スカルノ大統領による権威主義的な統治が20年近く続いたが、スカルノは民族主義、イスラーム主義、共産主義の三者を協調させるバランス政策を基調としていた。
しかし、50年代後半以降、共産党が伸張し始めると、元来左派ナショナリズムの傾向を持っていたスカルノは、非党員ながら、共産党に軸足を置き始めた。結果として、外交政策上も反マレーシア、親東側路線が鮮明となった。
そうした中、1965年、近代インドネシア史上の転換点となる大事変9・30事件が発生する。この事件の全貌は未だに不明ながら、通説的には共産党を支持する左派少壮軍人らがスカルノの下で革命政権を樹立する目的で企てたクーデター事件とされる。
この時、軍部側で鎮圧の指揮に当たったのが、当時陸軍戦略予備軍司令官の地位にあったスハルト将軍であった。彼は配下の精鋭部隊を動員してクーデターを迅速に鎮圧するとともに、下克上的に軍内の実権を握った。直後から翌年にかけて、スハルトはクーデターの背後にあると目された共産党に対し、党員やシンパもろとも抹殺する徹底的な壊滅作戦に乗り出し、最大推計100万人に上る犠牲者を出す大虐殺を断行した。
この一連の強権的な事変処理を主導したスハルトは、容共的なスカルノ大統領にも圧力をかけて徐々に実権を奪い、67年には辞任に追い込み、自ら大統領に就いた。以後、スハルトは98年の民衆デモで自らも辞任に追い込まれるまで、30年に及ぶ独裁体制を固守する。
スハルト体制は、スハルトの出身母体である軍部を基盤としながらも、社会の末端まで張り巡らされたゴルカルと呼ばれる翼賛政治組織によって下支えされていた。ただ、ゴルカルの綱領的原則は、スカルノ時代の建国理念パンチャシラ(信仰・人道主義・統一・民主主義・社会的公正)に置かれ、真正のファシスト政党ではなかった。
とはいえ、スハルト体制はスカルノ体制を転換する「新秩序」を掲げつつ、大統領の独裁的指導の下、反共親米路線に沿って政治的安定と経済開発を至上価値とする全体主義体制として、アジア的な開発ファシズムの最も長期的な成功例となった。それを支えたのはスハルトの共産党壊滅作戦にも協力し、最大の後ろ盾となった米国と、経済援助・投資を集中的に注ぎ込んだ日本である。
こうして、スハルト体制下では恒常的な反体制派・民主化運動への弾圧を伴いつつ、急速な工業化と都市開発が進み、著しい経済発展を遂げることとなった。しかし、その裏ではスハルト一族を含む体制幹部層の不正蓄財・汚職が蔓延していった。
スハルト大統領は、ゴルカルを通じた翼賛選挙により98年までに六選を重ねたが、前年のアジア通貨危機はインドネシア経済に打撃を与えた。有効な対策が打てない中、鬱積した国民の不満は恐怖支配を乗り越え、大規模な民衆デモに発展した。
体制内からも辞任圧力が発せられるに及び、スハルトは同年5月、ハビビ副大統領に禅譲する形で大統領を辞任した。事実上の民主化移行政権となったハビビ政権下で、一定の民主化措置が矢継ぎ早に打ち出された結果、99年の総選挙では野党連合が勝利、野党系のワヒド大統領に交代して、ゴルカル体制は正式に終焉した。