第三部 不真正ファシズムの展開
5‐4:フィリピンのマルコス独裁期
インドネシアの近隣諸国の中で、インドネシアに続いて開発ファシズムが現われたのはフィリピンであった。フィリピンは戦後の独立後、早くから旧宗主国アメリカの制度にならった大統領共和制が定着し、東南アジアにあっては民主的な体制が整備されていた。
そうした中、1965年の大統領選挙でフェルディナンド・マルコスが当選した。彼は弁護士出身で、若くして国会議員となった少壮政治家であった。彼は選挙戦で大戦中の日本軍とのゲリラ戦の功績を宣伝して回ったが、その公称経歴の大半は疑わしいものであった。
とはいえ、民主的政治家として登場した彼は、すでにこうした大衆煽動的手法の片鱗を見せており、69年にはフィリピン史上初めての大統領再選を果たした。当時の憲法では三選は禁止されており、二期目は73年で満了、退任となるはずだった。
ところが、マルコスは72年9月、突如戒厳令を布告して憲法を停止し、独裁権力を握った。口実とされたのは、70年代に入って目立っていた左翼学生運動の急進化や貧しい農村に浸透していた毛沢東主義の共産党武装組織・新人民軍のゲリラ活動の活発化であった。
反共主義者のマルコスはこうした情勢を共産主義者の脅威と宣伝し、国家社会の防衛を名目とした戒厳独裁統治を正当化した。このように、当初は民主的な選挙で政権に就きながら、非常措置を発動して独裁制へ移行させる手法は、ナチスのヒトラーのそれと類似していた。
戒厳令発動以後のマルコスは、「新社会運動」なる翼賛政党を組織して、政権基盤とした。この政党には国家主義的な色彩も見られたことから、ファシスト政党に近い側面を持っていた。そのため、72年戒厳後のマルコス体制を真正ファシズムと見る余地もあるが、「新社会運動」は明確なイデオロギーを持たず、マルコス独裁体制のマシンとしての役割が大きかったことから、不真正ファシズムに分類しておく。
一方、マルコスは文民出身ながら、ミンダナオ島のイスラーム分離独立運動も対象に加わった対ゲリラ戦の必要上、軍の増強を進め、その規模は最大20万人に膨れ上がった。さらに警察軍や自警団組織を動員した超法規的処刑などの手法で共産主義者とみなされた者の抹殺を行うなど、組織的な人権侵害が横行した点では、インドネシアと類似する。
そうした抑圧体制の下、マルコスは表向きは工業化と農村の経済開発に重点を置き、華僑を中心とした伝統的な経済支配層の特権に切り込むポーズを見せたが、その裏では日本をはじめとする開発援助の利権を一族や側近集団がむさぼる汚職が蔓延していた。
マルクスは81年に戒厳令を解除するが、民主化はなされず、形式的な議会選挙と大統領選挙により、新社会運動を基盤とする事実上の一党支配体制を作出した。体制の性格・実態は変わらず、83年には野党指導者ベニグノ・アキノの暗殺事件が起きている。
晩年のマルコスは健康問題を抱える中、事実上の終身執権を狙って86年の大統領選にも出馬したが、この時、組織的に行なわれた不正投票によりアキノ未亡人のコラソン・アキノ対立候補を破り、「当選」したことが国防省・軍部の一部の反乱、そしてこれを支持する民衆デモを誘発した。
事態を収拾できなくなったマルコスは、後ろ盾のアメリカからも引導を渡される形でハワイへ脱出し、代わってアキノが大統領に就任した。こうして、フィリピン開発ファシズムは劇的な民衆革命によって終焉した。インドネシアより10年以上早い幕引きであったが、これはフィリピンに根付いていた民主主義のバネが働いたためであった。
フィリピンの開発ファシズムは期間の相対的な短さ(72年戒厳令布告以降の14年間)、晩期における大統領の弱体化や極端な縁故政治などの諸事情から、インドネシアとは対照的に、持続的な成功を収めることなく終わったのである。