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避難所格差の不正義

2016-04-23 | 時評

資本主義は「格差」の経済であるとはいえ、災害時の避難所格差は放置できない不正義である。これは、災害時の避難所の中に物資が届く所と届かない所の格差が生じる現象であるが、このような不均衡もまた、日頃は配給に慣れていない市場経済ならではの混乱現象と言える。

ただ、こたびの熊本・大分地震では、こうした「格差」が誤った政策によっていっそう助長されてしまった面も否めない。問題の一端は、東日本大震災後の法改正で導入された「指定避難所」の制度にある。

「指定避難所」とは、「災害の危険性があり避難した住民等を災害の危険性がなくなるまで必要な期間滞在させ、または災害により家に戻れなくなった住民等を一時的に滞在させることを目的とした施設であり、市町村が指定するもの」と定義されている。

このような制度が導入されたのは、内閣府の趣旨説明によれば、「東日本大震災において、多数の被災者が長期にわたる避難所生活を余儀なくされる状況の中、被災者の心身の機能低下や様々な疾患の発生・悪化が見られたこと、多くの要配慮者が避難所のハード面の問題や他の避難者との関係等から自宅での生活を余儀なくされることも少なくなかったことなどが課題となった」点を踏まえ、「災害の発生時における被災者の滞在先となるべき適切な施設の円滑な確保を図るため」だとされる。

このように、避難所を言わば自治体公認のものと住民が自主的に立ち上げた非公認のものとに線引きすれば、当然公認避難所と非公認避難所とで「格差」を生じることは目に見えている。現実の被災時に、住民が指定避難所に全員無事にたどり着けるという保証はないことからして、こうした行政的な指定の制度は、まさしく官僚的な机上論であったのである。

むしろ事前の指定に関しては、施設の老朽化や耐震強度、近隣建造物の危険性等の理由から避難所としての利用に適しない施設を事前に「指定」しておくことのほうが合理的である。その一方で、住民が自主的に立ち上げた避難所は、すべて事後的に避難所として追認することである。

その際、広域被災の場合に域内で無数に現われる自主的な避難所の所在をすべて行政が把握することは困難という言い訳も聞かれるが、自治体内で避難所として利用される可能性のある公共的施設は事前に予想できるはずであり、そのすべてを把握することは決して不可能ではない。

このように「指定避難禁止場所」と「予想避難所」という発想に切り替えれば、配給を苦手とする市場経済といえど、到達の難易度などによる時間的な遅速の差は伴っても、避難所格差という不正義は最低限克服できるはずである。

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