Ⅱ 悪魔化の時代
高貴な醜形者たち
容姿の美醜評価は文化的な美意識の規準によるところが大きいとはいえ、当該民族集団の価値尺度に照らして明らかに醜形とまなざされる人間は、社会的には不具者に等しい扱いを受ける運命にあってきた。悪魔化の時代には、まさに悪魔とみなされたかもしれない。
これについても、一般庶民の実例は記録に残らないため、何も語ることはできないが、ここでは歴史上記録に残された高貴な醜形者のうち、成功者と失敗者をそれぞれヨーロッパと日本の事例から二人ずつ取り上げてみよう。
まずヨーロッパからは、いずれも大国の王妃の事例である。一人は、英国テューダー朝ヘンリー8世の四番目の王妃となったアン・オブ・クレーブスである。彼女はドイツのプロテスタント上流貴族の娘で、反カトリックの宗教改革を断行したヘンリー8世にふさわしい妃をという重臣トマス・クロムウェルの差配で嫁いできた。
ところが、事前に宮廷画家ハンス・ホルバインに美しく描かせたアンの肖像画と食い違う醜形であったことに激怒したヘンリーにより半年で離婚となり、クロムウェルは責任を問われ処刑、ホルバインも追放という宮廷を揺るがす大醜態に発展してしまう。
写真の発明がまだ遠かった時代ゆえの悲劇と言えるが、実際のアンはさほど醜形ではなかったとの証言、単に身勝手なヘンリーの好みに合わなかっただけという説もある。少なくともアンは性格は善良で、離婚後も死去するまで英王族として遇され、ヘンリー自身も罪悪感からかアンに所領と年金を保障して面倒を見たのであった。
一方、スペインのボルボン朝カルロス4世の王妃マリア・ルイサ・デ・パルマは醜形を逆手に取って成功者となった。彼女も元来はさほど醜形ではなかったとされるが、度重なる出産と加齢により次第に容色が酷く衰えたとされる。
実際、著名な宮廷画家フランシスコ・デ・ゴヤが手がけたマリア・ルイサの肖像画は王妃の肖像画としては異例なほど醜さを強調したものとなっている。マリア・ルイサは弱体な君主である夫に代わって宮廷を支配し、事実上女王のごとく傲慢に振舞っており、国民の評判は悪かった。
ゴヤの筆致はそうした彼女の悪性格を率直に反映したものとも言われるが、マリア・ルイサ自身はゴヤの筆致に立腹するどころか、満足していたと言われる。自身の権勢への絶大なる自信からかもしれない。
しかし、晩年のマリア・ルイサはナポレオンのスペイン支配に屈し、退位を強いられた夫とともに国外に亡命、フランスを経て、イタリアで客死する運命をたどった。
日本からは、まず大成功者として豊臣秀吉が挙げられる。秀吉の容姿に関しては様々な説があるが、「猿」という有名な蔑視的異名からしても、醜形だったと考えられる。ある程度客観的な外国人による描写でも、ポルトガル人司祭ルイス・フロイスは、秀吉の容姿について「低身長かつ醜悪な容貌の持ち主で、片手には六本の指があった」と記している。
価値尺度の異なる外国人からも、秀吉は醜形とまなざされていたことになる。ちなみに六本指とは手足の先天性形状異常である多指症を示唆するものであり、これが真実とすれば秀吉は軽度ながら身体障碍者でもあったことになろう。
とはいえ、日本人にとってはよく周知のとおり、秀吉はこうしたハンディーをものともせず天下人となり、全国の大名にその威令を行き渡らせたのであった。彼自身、「予は醜い顔をし、五体も貧弱だが、予の日本における成功を忘れるでないぞ」と誇ったと伝えられるように、醜形を逆手にとって成功者となったようである。
秀吉とは対照的に失敗者となったのは、徳川家康の六男松平忠輝である。彼は武将として有能だったが、終生にわたり父家康からその容貌を理由に嫌悪されたと言われる。その容貌とは、生まれた時、「色きわめて黒く、まなじりさかさまに裂けて恐しげ」というもので、家康はそのために忠輝を捨て子扱いしたと伝わる。
これは脚色まじりの中近世特有の大袈裟な悪魔化描写であり、信憑性は疑問である。ただ、伊達家との姻戚関係構築のため、幼い忠輝を伊達政宗の娘と政略的な幼児婚に供したのは、ある意味で「捨て子」であった。
ちなみに、家康は同じく疎外した次男結城秀康が梅毒の進行で鼻が欠けてしまったのを付け鼻で隠しているのを知り、「病気で体が欠損することは自然であり、恥でない。武士は外見ではない。ただ精神を研ぎ、学識に富むことこそ肝要」と諭したと伝えられる。
これは伝説的な逸話に近いが、「見目より心」の格言にも通じる武士道的な価値基準を示している。家康が別の息子の忠輝を容貌のゆえに疎外したとすると、逸話とも矛盾するので、忠輝疎外には他の理由があったのかもしれない。
疎外されながらも、やはりプリンスであった忠輝は越後高田藩75万石の大大名に栄進しているが、家康死去の直後、兄の2代将軍秀忠によって大坂夏の陣の際の遅参等を理由に改易されてしまう。以後は長い配流余生を静かに送り、最期を諏訪で迎えるが、享年92歳は近世異例の長寿で、家康の男女多子の中で一番最後まで生き延びたという点では、忠輝は「成功者」だったのかもしれない。