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共産論(連載第9回)

2019-02-15 | 〆共産論[増訂版]

第2章 共産主義社会の実際(一):生産

(2)貨幣支配から解放される

◇交換価値からの解放
 前節では、共産主義社会の特質として、商品生産がなされないということを論じた。商品生産がなされないということは、商品交換がおおかた例外なく貨幣交換に収斂されている現代社会では、ほぼイコール貨幣制度の廃止と同義である。
 ここで改めて驚倒する前に、貨幣制度の廃止とはいったいどんなことを意味するのかを考えてみたい。まず、それは我々が交換価値の観念から解放されることを意味する。
 例えば、10万円のパソコンがあったとする。この場合、そのパソコンには10万円相当の交換価値が与えられていることになるが、このことはそのパソコンの性能(=使用価値)が真実10万円に値するかどうかとはひとまず別問題である。もしかすると、そのパソコンは頻繁に故障するような欠陥商品かもしれない。
 貨幣制度が廃止されるならば、そのパソコンにはもはや貨幣で評価される価値=価格はつかない代わりに、直接その性能いかんによって評価されるであろう。これは使用価値中心の世界である。
 もちろん資本主義社会でも、使用価値が一切不問に付されるわけではない。10万円の交換価値にふさわしい使用価値のない商品は売れないであろうし、使用価値のない欠陥商品をそうと知りながら偽って販売すれば詐欺罪に問われるだろう。それでも、資本主義にあっては交換価値が使用価値に優先するのであって、目当ての商品の使用価値を我々が利用したければ、ともかくいったんは交換価値相当額の貨幣と交換することが要求される。これは交換価値中心に回る世界である。
 商品経済があらゆる部面に貫徹されるに至った社会では、いかなる財・サービスを取得するにも交換価値相当額の貨幣を要求されるから、カネがなければそれこそおにぎり一個も購入できず餓死することもやむを得ない帰結として、慨嘆されつつも容認されるのである。反面では、この世はすべてカネしだい、カネさえあれば何でも買えるという魅惑的な浮世でもある。
 そこからまた、カネのためなら犯罪行為も辞さない人間も跡を絶たず、窃盗、強盗、詐欺のような財産犯罪はもちろん、殺人のような人身犯罪を含めたおよそ犯罪の大半に何らかの形でカネが絡んでいるのが、資本主義的世情である。

◇金融支配からの解放
 交換価値の表象手段となる貨幣というシステムはその本性上民主的ではないから、貨幣経済とは一種の専制体制である。そのような「貨幣的専制支配」が最も端的に現れるのが金融の領域である。
 貨幣そのものの資本的化身である金融資本は融資や投資を通じて資本主義経済全般の総設計師の役割を果たす一方で、そうした総帥的役割ゆえの横暴さが資本主義の歴史を通じて見られ、その無規律で時に制御不能な行動がしばしば深刻な経済危機のきっかけを作ってもきた。
 2008年大不況の発端となった金融危機でも、人間が自ら作り出した複雑な金融システムを自ら制御できず、逆に人間が金融システムに支配され、破滅させられかねないフランケンシュタインさながらの姿がさらけ出されたのであった。
 貨幣制度の廃止は、銀行を中心とする金融資本を全面的に解体することになる点で、「貨幣的専制支配」からの解放を保証するのである。(※)
 このことは金融に起因する経済危機からの解放のみならず、より日常的な直接の帰結として、およそ借金からの解放をもたらす点において、多くの人々に朗報となるであろう。疑いもなく、借金は個人にとっても、企業体さらには国家や地方自治体のような公的セクターにとっても、破産を招く貨幣の最も恐ろしい形態だからである。
 借金は債権という法的形式をまとって、合法的な権力としても(=強制執行)、非合法な暴力としても(=暴力金融)発動される貨幣の最高の力として債務者を支配するがゆえに、恐ろしいのである。このような力からの地球全域での解放は、まさに地球人の共同利益に資するはずではないだろうか。

※金融資本のみを敵視して「金融資本主義」からの解放を一面的に主張する議論とは異なる。資本主義は金融資本を司令塔として運営されている経済システムであるから、金融=資本主義なのであって、「金融資本主義」は同語反復的である。

◇共産主義と社会主義の違い
 今日でもしばしば混同されている共産主義と社会主義の違いとは、ごく大雑把に言えば貨幣制度の有無にあると言ってさしつかえない。
 従来、社会主義は「平等な無階級社会」をめざすと宣伝していたが、貨幣はその本性上決して平等には行き渡らないものであるから―その意味でも貨幣システムは民主的ではない―、貨幣制度を維持する限り、その下での完全な所得・資産の均等化(均産化)はおよそ不可能なことなのである。
 従って、貨幣制度を廃止しないままの「社会主義」では、どのようにしても階級社会を根絶することなどできはしない。20世紀に社会主義の盟主だった旧ソ連にしても、しばしば誤解されるような「完全平等」が達成されていたわけでは全くなく、むしろすべての資本家にとっての究極的理想である出来高払いの成果主義賃金体系が構築されていたのであったし、共産党官僚特権に基づく各種役得(賄賂も含む)の介在により、一般労働者層と共産党官僚層との間には所得格差を含めた生活水準の格差が公然と発現していたのであって、その実態は端的に言って「社会主義的階級社会」と呼んでも過言でなかった。
 従って、旧ソ連社会を「完全平等社会」と事実誤認したうえで、そのような「平等」こそが旧ソ連体制の“活力”や“競争力”を喪失させ、資本主義陣営に敗北した要因であると分析するのは的を得ない。
 それと同時に、貨幣制度―より厳密には商品‐貨幣交換経済―が廃止される共産主義と、それがなお温存される社会主義とを同視・混同することも失当なのである。

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