第4章 共産主義社会の実際(三):施政
(6)裁かない司法制度が現れる
◇共産主義的司法制度
三権分立論の祖にして自らもフランス革命前の世襲司法官であったモンテスキューは、司法権を“恐るべき権力”とみなし、「裁判権力とは言わば無」という象徴的な表現で司法権の徹底的な抑制を説いたのだが、ブルジョワ国家では文字どおりに裁判権力を無にすることはできないことを彼は知っていたからこそ、そう比喩的に説いたのだった。
ブルジョワ国家で裁判権力を無にできないのは、資本主義的貨幣経済では個人にとっても企業体にとっても「資本」となる金にまつわる紛争が絶えることはあり得ないからにほかならない。実際、殺人のような生命に対する犯罪ですら、その動機ないし背景には金銭問題が絡んでいることが極めて多い。
これに対して、貨幣経済が廃される共産主義社会では当然にも、金にまつわる紛争は皆無となる。とはいえ、およそ人間社会に紛争は付き物であるとすれば、紛争を公的に処理する司法権力の必要性自体はなくならないだろう。
しかし、司法制度の内実は大きく変革される。すなわち、現在我々が当然のように受け入れている壇上から人を裁く裁判所という権威主義的な制度は 消え失せ、それに代えて、人を裁かない紛争処理制度が現れる。
こうした共産主義的紛争処理制度―これを広い意味で共産主義的司法制度と呼ぶ―は、三権分立という発想を採らない民衆会議体制の下では、「独立」の権力ではなく、民衆会議が掌握する民衆主権の一内容ということになる。以下では、その一端を素描してみたい。
◇衡平委員と真実委員会
共産主義的紛争処理制度の二大支柱は、衡平委員と真実委員会である。いずれであれ、裁判所のように「判決」という形で上から強制的な解決を与えるシステムではなく、より緩やかで仲裁的な解決を目指すシステムである。
衡平委員とは民事・家事紛争に際して、紛争当事者の間に入って双方の主張を聞き取り、調停を行なう専門委員である。衡平委員は原則として単独で対応するが、複雑な事件では必要に応じて二名で担当することもできる。
貨幣経済が廃される共産主義社会では当然にも金銭をめぐる紛争は消滅し、法的紛争の大半は家族・親族関係の家事紛争になると予測されるため、衡平委員のような制度は適合的なはずである。
他方、真実委員会は犯罪―前回見たように、共産主義社会では反社会的な犯則行為として把握されるようになる―の真相解明に当たる合議制機関であり、捜査機関が捜査を遂げた後、後で述べる人身保護監による請求を経て招集される。機能としては、刑事裁判の真相解明に相当するが、刑事罰等の処分を下すことはなく、真相の解明・確定のみを行なうものである。(※)
なお、衡平委員は法律家の中から各市町村ごとに任命される常勤職であり、真実委員はより広域の地域圏ごとに法律家のほか、当該事案にふさわしい有識者、代議員免許を有する一般市民の中から事案ごとに選任される非常勤職である。いずれも民衆会議によって任命される。
任命権を持つ民衆会議は連合領域圏と統合領域圏では異なり、連合領域圏の場合は連合民衆会議と準領域圏民衆会議の双方が二元的に持つが、統合領域圏の場合は全土民衆会議とするか地方圏民衆会議とするかは任意でよいだろう。
※少年非行事案の処理に当たる少年委員の制度も想定されるが、ここでは割愛する。
◇矯正保護委員会
共産主義社会における最も重要な変革の一つは、刑罰という制度が廃されることである。資本主義社会において犯罪の大多数を占める金銭絡みの犯罪全般が根絶されれば、なお残る少数の反社会的な犯則行為は刑罰をもって制裁されるべき罪悪というより療法的な対応で臨むべき一種の病理であるとの科学的な認識が民衆の間にも広く行き渡るだろうからである。そうなれば、刑罰制度に代わる新しい科学的な矯正処遇の諸制度も発達していくはずである。
それに対応して、犯則行為者に対する矯正保護処遇を課する合議制機関として矯正保護委員会が置かれる。この制度は、先の真実委員会による解明を経て、犯則行為者に対して医学的・心理学的・社会学的な調査を経て最適の処遇を課することを目的とする。
矯正保護委員会は矯正保護の専門的知見を有する三名の有識者で構成される。任命権を持つ民衆会議については、衡平委員・真実委員会に準じる。
◇護民監
護民官とは古代ローマにおいて平民の権利利益を擁護することを重要な任務とした古い歴史を持つ公職であるが、裁判所なき共産主義的司法制度において新たにこれをよみがえらせることができる。
ここでの新たな護民官は、現代的な基本的人権擁護・市民的権利の擁護を任務とする監督的司法職であり、そのような趣意から、政治職であった古代ローマの護民官とは区別して、「護民監」の同音異字を充てる(ただし、これは漢語特有の語変換で、英語ならいずれもtribuneである)。
護民監は、最も広範囲な権限を持つ一般護民監と、個別の専門分野を持つ専門護民監の二つの体系に分かれる。一般護民監は各圏域の民衆会議によって任命され、各民衆会議管轄下のあらゆる機関を対象とし、法令適用・法執行をめぐる不服・紛争の解決及び法令順守の監査にも当たる。
専門護民監として最も主要なものは、人身保護に専従する人身保護監である。その最も重要な任務は犯則司法の分野で、身柄拘束令状や捜索差押令状、通信傍受、監視撮影等の監視令状等各種の強制捜査令状の発付とそれに付随する被疑者及び被害者の権利擁護、さらに前回見た真実委員会の招集や再審議請求などを中心的な職務とする。
それ以外にも、私的か公的かを問わず、不法・不当な拘束状態にある人やその親族、第三者の請求に応じ、人身保護令状を発して直接に身柄を解放する任務も持つ。
人身保護監は広域自治体である地方圏(連合型の場合は、準領域圏)の民衆会議が地域ごとに管轄を定めて任命するが、その職権行使は常に単独で、かつ民衆会議からも独立して行なう。
その他、専門護民監には、中間自治体(郡)及び大都市ごとにそれぞれの民衆会議によって任命されるものとして、情報護民監、労働護民監、反差別護民監、子ども弁務監などがあり、民衆会議の政策により、必要に応じて新設、統廃合が可能である。
◇法理委員会
あらゆる紛争処理のプロセスにおいて、該当する法令の解釈をめぐって争いが起きることもある。三権分立テーゼの下では、立法府が立法した法律の解釈を司法権に丸投げするという処理が常識化しているが、民衆会議体制はそのような非民主的・無責任な対処はせず、法令解釈に関する紛争を審理する機関として、各圏域民衆会議に設置される法理委員会がある。
これは民衆会議の常任委員会の一つでありながら、憲章(憲法)を除く法令全般に関する最終的な有権解釈権を持つ専門委員会であり(※)、その委員は全員が法律家で構成され、民衆会議特別代議員の地位を持つ。特別代議員は民衆会議の審議に参加するが、票決権は持たないオブザーバー職である。
※憲章の解釈に関しては、憲章の改正問題を担当する特別委員会である憲章委員会が併せて行なう。そのため、憲章委員会の委員は一般代議員と憲章解釈を専門とする法律家から成る判事委員(特別代議員)に分かれる。
◇弾劾法廷
裁判所制度を持たない共産主義的司法制度にあって、例外的な裁判所制度として、公務員に対する弾劾法廷の制度がある。
その代表的なものは、民衆会議代議員及び民衆会議が任命する公職者の汚職、職権乱用等の非違行為を審理する特別法廷である。ただし、弾劾法廷の判決は刑罰ではなく、罷免や公民権停止・剥奪という形で示されるので、刑事裁判所よりは行政裁判所に近い性格を持つ。
民衆会議弾劾法廷は事案ごとに各圏域民衆会議の決議に基づいて設置される非常置の法廷であり、捜査・訴追に当たる検事団及び判事団は民衆会議が任命する法律家で構成される。
その他、弾劾法廷に属するものとして、公務員による人権侵害事案を審理する非常置の弾劾法廷として特別人権法廷や公務員及び公務員に準じる公人の汚職事案を審理する常置の公務員等汚職弾劾審判所があるが、これらの詳細もここでは割愛する。