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近代革命の社会力学(連載第281回)

2021-08-17 | 〆近代革命の社会力学

三十九ノ二 シリア/イラクのバアス党革命

(3)バアス党の軍内党派化
 前回見たとおり、バアス党革命は党発祥地のシリアと隣国イラクでのみ成功を収めたのであるが、その秘訣となったのは、いずれもバアス党が軍部内に深く浸透し、バアス党員の上級将校が計画的なクーデターの手法で政権に就くことを可能にしたからである。
 これは、当時のアラブ諸国では、軍部が最も近代的なセクターであり、おしなべてエリートの中堅・若手将校が民族主義に覚醒していたため、アラブの復興というバアス党の簡明なメッセージに感化され、入党する将校が少なくなかったことが背景となっていた。
 とはいえ、シリアとイラクでは軍内への浸透の経緯にも相違点が見られる。初めに発祥地シリアについてみると、ここでは1950年代にまず議会政党としてのバアス党の台頭が先行したことは、前回見たとおりである。
 この時期はエジプトのナーセルによる汎アラブ主義の理念が風靡していた時期であり、同様の理念を持つバアス党としても、ナーセルが提起した国家連合構想を支持し、58年のエジプト・シリアによるアラブ連合共和国の成立につながった。
 ところが、新生連合共和国はすべてにおいてエジプト主導となり、連合を支持したバアス党も権力中枢から外されるなど冷遇された。こうした非対称な「連合」に反発したシリアは、1961年、軍事クーデターにより連合を離脱、単立のシリアを回復した。
 このアラブ連合共和国の時期はバアス党にとっては大きな逼塞の試練となり、アフラクはいったんは解党を決断していた。しかし、これに反発した軍人党員らが軍事委員会を設立した。この党軍事委員会は事実上党から独立した軍内党派のような役割を果たし、やがては1963年におけるバアス党革命の主体として登場していくのである。
 一方、イラクの場合、バアス党は1950年代初頭に文民活動家のフアード・アル‐リカービによって設立されたバアス党イラク地域支部(以下、党イラク支部という)がその出発点であるが、その後の軍への浸透は1956年に入党したアーメド・ハッサン・アル‐バクルを軸として展開される。
 アル‐バクルは1958年の共和革命にも参加し、有力な中堅将校として台頭するが、革命政権のカーシム首相と対立し、59年には軍から追放された。その後、地下に潜伏しつつ、アル‐バクルは党イラク支部の軍事局議長として軍人の入党勧誘に努めた。
 こうしたアル‐バクルによる軍への浸透努力の結果、党イラク支部は1963年の2月のクーデターに成功し、アル‐バクルは復権、首相に任命されるが、この時期の党イラク支部は強硬派と穏健派に分裂し、政治支配力もなお不十分であったため、同年11月のナセリストによる再クーデターにより再び失権する。
 この後、アル‐バクルは再び下野するが、間もなく党イラク支部書記長に選出され、党内の主導権を掌握することに成功した。これによって党の軍内浸透はさらに強固なものとなり、やがて1968年のバアス党革命の成功につながっていく。
 もっとも、アル‐バクルは縁故主義を好み、従弟に当たるテロリスト出自のサダム・フセインを懐刀として重用したことで、謀略に長けたフセインが事実上のナンバー2として台頭し、次第に党を私物化していくことになるが、この件は後に取り上げる。

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