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近代革命の社会力学(連載第411回)

2022-04-14 | 〆近代革命の社会力学

五十七 ソヴィエト連邦解体革命

(8)革命の余波②:国際的
 革命的なソ連邦解体は、30年以上を経た現在まで及ぶ国際的にも長期波動的な余波をもたらした。最も大きなものは、東西冷戦構造の完全な解体である。冷戦の終結はすでにベルリンの壁の打壊を契機に、米ソ両首脳により1989年末には宣言されていたが、これは政治的な声明の性格が強く、この時点ではソ連邦はまだ存続することが予定されていた。
 しかし、1991年12月を境に、単一の主権国家としてのソ連邦は存在しなくなり、ソ連を盟主とする東側陣営というものも消滅した。結果的に米国一極集中状態となったことで、世界の構造も変容した。90年代の米国は 第二次大戦に続き、冷戦にも勝利したとの前提で、「唯一の超大国」なる新たな自己規定に酔いしれた。
 一方、東側陣営にあっては、すでに中・東欧の親ソ社会主義圏は連続革命によって続々と脱社会主義化に向かっていく中、東側陣営の軍事的要であったワルシャワ条約機構もソ連邦解体に先立って1991年7月には解散していたが、ソ連はアジア・アフリカからカリブ海に及ぶ広い範囲に多くの衛星国・同盟国を従えており、好条件で経済・軍事援助も行っていたところ、これらの諸国は突然、後ろ盾と援助を失うこととなった。
 そうした第三世界諸国の中でもアフガニスタン、ベトナム、北朝鮮、キューバ、エチオピアはそれぞれが属する地域における親ソ中核国としてソ連の世界戦略上も重視されていたが、これら諸国は、それぞれの仕方で体制崩壊や路線変更、自立化を余儀なくされた。
 これら親ソ中核諸国のうち、ソ連が内戦支援のため介入戦争を続けたアフガニスタンの社会主義体制は1989年のソ連軍全面撤退を経て、ソ連邦解体後の1992年には内戦に敗れ、崩壊した。エチオピア社会主義政権に対しては1990年の段階ですでにソ連の援助が打ち切られ、ソ連邦解体に先立つ1991年5月に反体制武装勢力による革命により体制崩壊した。
 一方、まさにソ連が生みの親とも言える北朝鮮では建国者・金日成の強固な個人崇拝体制が確立されており、国内的な体制維持は既定的であったが、ソ連の核の傘を失った防衛上の不安から自立的な核兵器開発に走り、1994年には核兵器拡散防止条約を脱退したことで、米国が一時的に北朝鮮核施設の空爆も検討するという危機に発展した。
 こうした直接的な余波に加え、アフリカではソ連体制を範とする一党支配体制(そのすべてが親ソであったわけではない)が林立していたところ、ソ連邦解体に前後して、複数政党制へ移行するドミノ倒し的な動きが連続した。これらの体制転換の多くは革命ではなく、独裁的長期執権者による反対勢力への(しばしば形ばかりの)譲歩策として行われたが、間接的にはソ連邦解体の余波現象に含まれる。
 より一層間接的な余波として、世界の共産党組織の在り方にも大きな影響を及ぼした。それまで世界中に拡散していた共産党の多くが綱領としてきたマルクス‐レーニン主義を転換し、民主的社会主義等の中和化路線に転換し、イタリア共産党のように議会政治に馴致していたユーロコミュニズム系の党でさえも、ブルジョワ民主主義への合流により、消滅していった。
 また、中国共産党は引き続きマルクス‐レーニン主義を綱領としながらも、従前から推進していた「改革開放」を拡大し、1993年には「社会主義市場経済」テーゼを憲法上も承認し、実質的に資本主義との合流を目指したが、これもソ連邦解体の間接的余波と言える。
 間接的余波の中でもユニークなものとして、日本におけるいわゆる55年体制の終焉も挙げることができる。これは日本共産党とソ連共産党の絶縁状態という特殊事情から、共産主義政党ではない日本社会党をソ連が支持していた中、それまで野党第一党として一定の対抗力を保持していた社会党もその存在理由が揺らぎ、90年代の政界再編力学の中で、事実上解体(少数政党・社会民主党に退縮)されていった。
 総じて、社会思想の面でも、憲法上「共産主義への道における法則にかなった段階」たる「発達した社会主義社会」1977年憲法前文と自己規定していたソ連邦がついに到達せず終わった共産主義は失効したものとみなされ、少なくともメインストリームにおいてはそもそも思考されなくなるという効果も生んだ。一つの範例的な体制の終焉が人間の集団的な思考枠組みの変容をももたらすという例証である。

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