八 科学と政治の一体化:ソヴィエト科学
ナチスによる科学の政治的悪用は高度に政治化されたナチス科学と呼ぶべき特有の科学のありようを示したのであったが、ナチスの科学利用がどちらかと言えば実用的な観点からなされていたのに対し、科学そのものを政治と一体化させ、科学を体制イデオロギーに込み込んでしまったのがソヴィエト科学である。ソヴィエト科学は、ナチス体制と異なりソヴィエト体制が長期間持続したため、より本格的で多彩な展開を見せ、中でも宇宙開発を含む軍事科学の分野では一時アメリカを凌ぐ成果を出した。とはいえ、科学者もソヴィエト体制のイデオロギーに沿った理論を提唱する必要があり、科学的真理の探究は政治的に歪められ、不毛なイデオロギー論争に終始することもあった。また、しばしば科学者自身が政治的に迫害・抑圧されることもあり、科学と政治の一体化には弊害が大きかったことは確かである。
ソヴィエト科学とイデオロギー
ソヴィエト科学における科学と政治の一体性の根源となったのは、ソヴィエトが体制イデオロギーと規定したマルクス‐レーニン主義による科学の統制である。もっとも、同主義に基づく統制は科学を含む全学術に適用され、科学への適用はその一環にすぎない。
マルクス‐レーニン主義自体は本来、社会科学分野における理論であり、それを自然科学分野にまで拡大適用することには無理があったが、ソヴィエト体制はその無理を強制したところから、ソヴィエト科学の政治性が強まったのである。
とりわけマルクス・レーニン主義がプロレタリア革命の理論にして、空想的な観念を排する「科学的社会主義」の理論と標榜されていたことから、「ブルジョワ的」または「観念論」とみなされた理論が排斥される傾向にあった。
しかし、こうした基準は曖昧かつ非科学的ですらあり、結局のところ、科学理論の正当性は理論そのものよりその提唱者が体制に忠実であるか否かという政治的審査基準に帰着した。そのため、物理学者として正当な業績がありながら、反体制的な言動のゆえに長く流刑に処せられたアンドレイ・サハロフのような例も現れたのである。
こうした政治的なソヴィエト科学の総本山は後で見るソ連邦科学アカデミーに置かれたが、ソヴィエトにおける科学研究が総じて大学よりも国立研究機関を基盤に行われたのも、統制が効きにくい大学より直接に党国家の統制と監視下に置きやすい国立研究機関が好まれたからであった。そのため、ソヴィエト時代には数多くの科学研究所が設立された。
ソヴィエト科学におけるイデオロギー統制の程度にも時代的な変遷があり、初期の編制期を経て最も統制が強まったのは、スターリン独裁時代の1930年代から50年代初頭にかけてである。
この時期にはスターリン自身が個人的にも興味を示した生物学・遺伝学分野で迫害を伴うイデオロギー論争が隆起したほか、物理学分野でもアインシュタインの相対性理論を「観念論」として排斥するようなキャンペーンが隆起している。
第二次大戦後には核開発や宇宙開発といったより実用性の高い科学技術研究も活発に行われるようになり、前出サハロフも水爆開発で業績を上げているが、これらの研究は戦後の冷戦期における軍拡競争という国策に奉仕するものであった。
スターリン死後のソヴィエト時代後半になると、ある程度イデオロギー統制が緩和されたとはいえ、科学と政治の一体化自体は体制末期の自由化によって解き放たれるまで不変であり、ソヴィエト科学の質を制約し続け、西側科学への遅れの要因となった。