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近代科学の政治経済史(連載第39回)

2023-01-13 | 〆近代科学の政治経済史

八 科学と政治の一体化:ソヴィエト科学(続き)

ソ連邦科学アカデミー
 ソヴィエト体制の存続期間中、ソヴィエト科学の総本山となったのがソ連邦科学アカデミーである。この機関は18世紀に設立されたロシア科学アカデミー(拙稿)を前身とし、ロシア十月革命から数年を経て、革命指導者レーニンが没した翌年の1925年に再編発足したものである。
 これに先立って、レーニン政権は1922年には旧帝政ロシア時代の知識人で、反ソヴィエト的とみなされた者を公職追放する措置を取り、かれらを蒸気船に乗せて国外へ追放したが、この通称「哲学者船」の乗客には科学者はあまり含まれていなかった。
 ロシア科学アカデミー(19世紀に帝国サンクトペテルブルク科学アカデミーに改称)は帝政ロシアにおける科学研究の基盤となり、帝政時代末期には大学を含めて多くの科学者が育ち始めていたが、帝政ロシアの科学者たちは革命政権と敵対することなく妥協し、アカデミーの再編存続を認めさせた。
 そうした激動期のアカデミーを率いて、ソ連邦科学アカデミー初代総裁となったのは地質学者・地球科学者のアレクサンデル・カルピンスキーであった。彼は十月革命前にロシア科学アカデミーの総裁に選出され、革命後も改めてソ連邦科学アカデミー総裁を1936年の死没まで務めた人物である。
 カルピンスキーはスターリン時代も迫害されることなく生き延び、ソヴィエト時代初期の科学界重鎮として90歳近い長寿を全うし、葬儀にはスターリンも参列、ソ連の切手の肖像に納まるほどの要人となった。
 一方、政治と一体化したソヴィエト科学が構築されたのも、カルピンスキーがアカデミー総裁職にあった時代である。1929年以降、アカデミーに対する党国家の統制は強化され、その幹部人事はソ連共産党が主導することが慣例となり、アカデミーはソ連政府の管理下に置かれた。
 その性格は事実上の党国家の研究機関であり、ソ連共産党のイデオロギーと政策目標に奉仕するべく定められていた。そうした条件下で、アカデミーは複数の支部組織とロシアを除く連邦構成共和国ごとのアカデミー、社会科学分野を含む300近い研究所、付属図書館のネットワークとして整備され、多数の研究者を擁する学術機構に発展し、多彩なソヴィエト科学を支えたことは確かである。
 ちなみに、医学分野に関しては1944年にソ連邦医学アカデミーが設立され、科学アカデミーとは別立てとなったが、当然ながら、その組織構造や性格は科学アカデミーに準じていた。
 科学アカデミーは最終的にソ連邦解体に至るまで7人の総裁を輩出したが、いずれも自然科学分野の研究者であり、特に戦後は核物理学や有機化学、宇宙工学、大気物理学など、ソ連政府が比重を置いていた重工業や軍需、宇宙開発に奉仕する分野の研究者が総裁職に就いていることからも、アカデミーの政治性が見て取れる。

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