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近代革命の社会力学(連載第142回)

2020-09-02 | 〆近代革命の社会力学

十九 オーストリア革命

(5)革命の挫折と革新的ウィーン市政
 オーストリア革命は、皇帝の出国後、ハプスブルグ家の統治の廃止と資産没収を決めたハプスブルグ法の制定をもって、ひとまず共和革命としては一段落した。
 しかし、社会主義政党である社会民主労働者党とカトリック保守のキリスト教社会党の大連立という本来ベクトルが正反対の呉越同舟体制が続く中、共和革命後の方向性については定まらず、暗雲が立ち込めていた。
 前回見たように、革命政権を主導する社会民主労働者党は新生ドイツ(ワイマール共和国)との統合を視野に入れつつ、急進的なレーテを取り込むべく、「社会化」を柱とする革新的な政策を展開しようとしていたが、そのいずれもが壁に直面する。
 ドイツとの統合は連合国の強い反対にあい、1919年9月に署名された連合国との間の講和条約であるサン‐ジェルマン条約において否定され、挫折した。これにより、オーストリアは単独の共和国(第一共和国)としての地位が国際法上も確定した。
 他方、民営企業の実質的な国営化を志向する「社会化」政策は、大連立を組むキリスト教社会党や経済界からの反発を受け、労働者の経営参加権を認める経営評議会制度の創設がせいぜいであったが、これすら、形式的なものにすぎなかった。
 こうして内外政策ともに行き詰まりを見せる中、第一共和国の今後を占う試金石となったのが、新憲法公布の直後、1920年10月に行われた最初の正式な国政選挙であった。この選挙で、社労党は3議席の減少ではあったが、「社会化」を懸念する勢力の支持を受けた連立第二党のキリスト教社会党が躍進し、第一党の座を譲り渡すこととなった。
 ここで、連立に残留するか下野するかの選択を迫られた社労党は、レーテからの要請もあり、結局、下野の道を選んだ。これにより、同党が主導してきたオーストリア革命は、一年で挫折することとなった。この後、同党は第二次大戦直後まで、国政においては野党のままであった。
 しかし、首都ウィーンでは、社労党が1934年まで市政を主導し、「赤いウィーン」の異名を取った。ただし、国政で追求されたような「社会化」政策ではなく、公共住宅の整備や医療費無料化、驕奢税などの進歩的な社会経済政策を主要な政策とする革新市政であった。
 この間、社労党が下野した国政のほうは、着実に保守化が進行していった。保守派は「護国軍」なる民兵組織を結成し、社労党や革命派に対する攻撃を強める一方、社労党も対抗上、武装組織として「共和国防衛同盟」を結成したため、両者の武力衝突が頻発した。さらに、隣国ドイツから波及したナチズムが急速に勢力を拡大し、三つ巴の社会騒乱状況となった。
 そうした中、キリスト教社会党のエンゲルベルト・ドルフース首相は1933年、議会を停止し、独裁体制の樹立を目指した。このドルフース体制はイタリアのファシズムを参考にしつつ、社会主義もナチズムも抑圧する中道的独裁を通じて国家の安定を取り戻さんとする疑似ファシズムの性格を持っていた。
 これに対して、1934年2月、社労党と共和国防衛同盟が武装蜂起した。言わば、遅れてきた武装革命となり得る事象であったが、準備不足のため、これは「二月革命」とはならず、革新的ウィーン市政を含め、革命の最終的な墓穴となった。
 この「二月蜂起」は、1000人以上とされる死者を出して鎮圧され、その後、社労党もナチ党もともに禁止された。こうして確立されるかに見えたドルフース独裁体制であるが、同年7月、クーデタ―を企てたオーストリア・ナチス党員によってドルフースが殺害され、あっけなく終幕した。
 これを機に、オーストリアではナチズムが躍進し、1938年にはヒトラーからの圧力により、国民投票という形を取ってオーストリアとドイツの併合が決定され、オーストリアはナチス「第三帝国」の一部となる。
 こうして、強固な革命集団を欠いたため、革命が早期に挫折、保守化する中、ナチズムへと反転、反動化していった経過はドイツとも並行している。


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