三十四 ハンガリー民主化未遂革命:ハンガリー動乱
(4)民衆蜂起の革命化と挫折
ナジ首相の追い落としに成功したラーコシら保守派であったが、これに対する民衆の抗議活動が活発化すると、モスクワは1956年7月、改めて圧力をかけてラーコシに退陣を要求、ラーコシに代わってゲレー・エルネーが勤労者党第一書記に選出された。
しかし、ゲレーは長年のラーコシ側近であり、ラーコシの名代にすぎなかった。この小手先の新人事が、大規模な民衆の抗議行動を誘発する契機となった。事態を憂慮したソ連は、ワルシャワ条約上の集団的自衛権を根拠にソ連軍を派兵し、暴動の鎮圧に当たった。
しかし、1956年10月23日、首都ブダペストでの学生の抗議デモを嚆矢として、労働者も参加した大規模な抗議デモが警察との衝突に発展すると、狼狽した党指導部は再びナジの党籍を回復したうえ、首相に呼び戻した。
こうして二転三転の末、10月24日、第二次となるナジ政権が発足したが、この政権は党指導部の方針急転で発足したとはいえ、事実上民衆の要求で成立したもので、勤労者党独裁体制内にありながら、革命政権としての性格を帯びていた。
実際、同日には、公式政府と並行する形で、自主的な労働者評議会や国民評議会が立ち上げられた。こうした民衆の革命組織は、公式政府と完全に対峙する対抗権力ではなかったが、公式政府を下から突き上げる革命的圧力装置として機能するはずものであった。
従って、民主化革命はこの第二次ナジ政権の発足に始まると言ってよいが、この革命は民衆の革命的な力動と支配政党内の力学、さらには支配政党の背後にあるソ連の思惑とが交錯する複雑な力学のうえに勃発したと言える。それゆえに、革命の進展には大きな制約があった。
とはいえ、ナジは制約を超えて民衆の要求に答えようとした。まずはラーコシ体制の産物である大量の政治犯の釈放を行い、自由化を進展させた。さらに、勤労者党独裁を緩和するべく、10月31日には勤労者党を社会主義労働者党に改称・改組したうえ、11月3日に改めて、独立小農党などとの連立政権を形成した。
この第三次の改造ナジ政権は、その構成上は第二次大戦終戦直後の連立政権に近い形まで戻したもので、ある種の臨時革命政府の性格を持つものではあったが、わずか1日で瓦解したこともあり、労働者評議会等の民衆組織との連携関係を構築する余裕はなかった。
もう一つの制約は、ワルシャワ条約である。これはソ連を中核とする中・東欧社会主義同盟の根拠となる集団的安全保障条約であり、まさに東西冷戦の象徴でもあるが、50年代には事実上ソ連の覇権追求と加盟諸国への内政干渉の道具と化しており、民衆はワルシャワ条約からの脱退も要求事項に掲げ始めていた。
そこで、ナジ政権はソ連当局者とソ連軍の撤退に関して交渉を進めた結果、ソ連側でも軍事介入消極論があり、10月27日には撤退が決まった。しかし、民衆の革命的なエネルギーはとどまることなく、勤労者党員や警察官を襲撃するリンチ行動などが多発する事態となった。
そうした騒乱状況の中、ナジ政権はワルシャワ条約からの脱退と中立を宣言したが、これはもはやソ連の許容限度を超えていた。11月4日、一度は撤退を開始していたソ連軍が反転してブダペストに進撃し、短時間のうちに市内を制圧、ナジ政権はあえなく瓦解した。11月10日には、労働者評議会ら革命派もソ連との「休戦」を呼びかけ、革命は終結した。
こうして、1956年ハンガリー民主革命は、期間にすれば同年10月23日から11月4日または10日までのわずか二週間程度の瞬時的なものに終始したため、革命というよりは動乱と呼ばれることも多いが、その実態は同盟主ソ連及びその独裁的衛星国の状況からの解放を希求する民主化革命であったと言える。
しかし、短期で終結したわりに犠牲は大きく、ソ連軍との戦闘で革命派数千人が死亡したと見られ、一連の動乱及びその後の親ソ派政権による報復的弾圧の中で、約20万人が政治難民化し、海外亡命を強いられたのであった。