三十五 第二次ボリビア社会主義革命
(2)国民革命運動の台頭
1952年の第二次ボリビア社会主義革命で中心的な役割を担った国民革命運動(MNR)は、第一次革命が挫折して間もない1941年に、ともに弁護士のビクトル・パス・エステンソロとヘルナン・シレス・スアソによって創設された政党である。
この党は第一次革命によって革新的な政治運動が刺激されたことを背景にして結党され、最初期の支持者は中産階級知識人が中心であったが、MNRが結党から間もなく台頭し得た契機として、結党直後の1942年12月、ボリビアを代表するカタビ錫鉱山で、軍により労働争議が流血弾圧されたカタビ虐殺事件の反響が大きい。
この事件を機にMNRは鉱山労働者の組織化をベースに党勢を拡大し、翌43年には軍内の急進的な青年将校グループを率いていたグアルベルト・ビジャロエル少佐のクーデターに参加、ビジャロエル政権の与党となった。
こうしてMNRは結党から一年で政権に参加することとなるが、ユダヤ移民禁止政策を主張していたMNRを親ナチスとみなしたアメリカの圧力により、1944年、MNRはパス・エステンソロをはじめ、閣僚を政権から引き上げることとなった。しかし、同年の総選挙で勝利すると、再び復帰している。
実際のところ、MNRのイデオロギーには曖昧な点もあり、中産階級によって結党された当初は基本的に民族主義的な社会主義であったが、ソ連流のマルクス‐レーニン主義とは一線以上を画しており、革命の挫折後再生を果たした1980年代になると新自由主義に転じるなど、生存戦略に長けている反面、イデオロギー的一貫性を欠いていたことはたしかである。
むしろ、ファシズムに傾斜していのは、ビジャロエルとその同志将校であったと考えられる。もっとも、ビジャロエル政権も、第一次革命の継承と社会改革を標榜し、保守勢力とは対立したので、完全なファシズムとも異なる曖昧な点が認められた。
大戦をはさんで1946年まで続いたビジャロエル政権下では史上初めて全国先住民会議が開催され、先住民の権利保障の基礎が築かれたことは、社会改革という点で特筆すべき事績となったが、政権は左右両翼からの反対にさらされ、次第に政敵・反政府派に対する苛烈な抑圧に走っていったため、折からの経済悪化も手伝い、国民の強い抗議行動を招いた。
その結果、1946年7月には抗議行動が革命的な様相を呈し、政権は崩壊、ビジャロエル大統領は暴徒によるリンチで虐殺され、まさにイタリアのファシスト、ムッソリーニと同様に遺体をさらされるという悲惨な最期を遂げた。
NMRはビジャロエル政権の失敗にもかかわらず、その後も労働組合運動を基盤に着実に勢力を伸ばしていった。しかし、1946年以後、1951年の大統領選挙までは保守勢力が政権を奪回しており、NMRは野党勢力にとどまった。