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近代革命の社会力学(連載第219回)

2021-04-07 | 〆近代革命の社会力学

三十一 インドネシア独立革命

(5)「指導された民主主義」への道
 1949年の対オランダ戦争終結後、改めてのインドネシア共和国の正式な樹立によってインドネシア独立革命が一段落すると、1950年代前半に本格的な建国期を迎えるが、その中心にあるのは一貫してスカルノであった。
 遡ると、日本軍政下での独立準備委員会の段階で、スカルノは建国五原則(パンチャシラ)として、①愛国主義②国際主義③合議制④社会福祉⑤唯一神信仰を掲げていた。この段階では、第3原則の合議制によって、曖昧ながらも議会制が示唆されていた。
 ただし、独立宣言直後に発布された1945年憲法では、五原則を踏まえつつも、西欧流の大衆民主主義に対置する形で、「指導された民主主義」(または指導制民主主義)を打ち出し、強力な大統領の指導による国家建設を構想していた。
 ところが、1950年の新憲法では一転して西欧流の議会制を志向し、大統領権限を制約された二元的な議院内閣制を導入した。おそらくは国際社会の支援で独立戦争を克服した後、対外的なイメージへの配慮と戦争に貢献した諸勢力への報償を優先したものであろう。
 この時点では、スカルノら世俗主義のインドネシア国民党と穏健なイスラーム主義勢力の連立が基調で、独立戦争中に反乱を起こした共産党は排除されていた。しかし、世俗主義者とイスラーム主義者の同居は不安定なうえ、政権から排除された共産党にも不満が募っていた。
 共産党の側では、労働者階級出自のディパ・ヌサンタラ・アイディットがカリスマ性を持った若手の指導者として台頭し、48年の未遂革命後、壊滅状態だった党を再建し、積極的な大衆活動によって党勢を拡大した。
 1955年に初の総選挙が施行されたが、共産党は議席の16パーセント程度を獲得して議会第四勢力となり、57年のインドネシア心臓部・ジャワ島の統一地方選挙では第一党となるなど、無視できない野党勢力として躍進した。
 他方、総選挙後、50年代後半期には、地方で武装反乱が相次いだ。元来、群島国家のインドネシアにおける続発的な地方反乱は、共和国解体の危機に直結する。そのため、スカルノ大統領は1959年、憲法停止、議会解散という非常措置に出た。大統領自身による「自己クーデター」であった。これ以後、スカルノは「指導された民主主義」に立ち戻る決断を下した。
 そうした権威主義的な指導を伴う民主主義という自己矛盾を内包する理念の具体化として、 NASAKOM体制が打ち出された。 NASAKOMとは、民族主義(Nasionalisme)に宗教(Agama:イスラーム)、さらに従来排除されていた共産主義(Kommunisme)を加えた三大勢力の協働体制を意味するインドネシア語の頭文字略称である。この混沌とした体制の全体を統制・指導するのが、最高指導者すなわちスカルノというわけである。
 ここでの新たな特徴は共産主義勢力、すなわち共産党を体制内に取り込んだことである。スカルノ自身は共産主義者ではなかったが、上述のとおり共産党が躍進し、無視できなくなっていたことに加え、この頃、独立戦争では前線に立ち、地方反乱の鎮圧作戦でも重要な役割を果たす軍も政治的な発言力を高め、スカルノにとって脅威となっていたことに対抗し、共産党を言わば盾に利用する意図も働いていたと見られる。
 こうして、1960年代前半にかけて、インドネシアは新たな段階に入るが、NASAKOMによって共産党を取り込んだことで、高い代償を払うことになる。共産党は軍内にも浸透し、やがて共産党系中堅将校らによるクーデターの企てに発展し、それがスカルノ自身の失墜にもつながったからである。


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