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近代革命の社会力学(連載第44回)

2019-11-25 | 〆近代革命の社会力学

四ノ二 18世紀オランダ革命

(3)憲法党争
 18世紀オランダ革命の特徴は、同時並行的に進展していたフランス革命のような劇的な展開よりも、主として連邦派と集権派の理論闘争が軸となっていたことである。もちろん、それは純然たる学術論争ではなく、党派的な対立をベースとした党争の形態を取っていた。
 とはいえ、フランス革命のように、各党派の象徴となるような突出した人物は見当たらず、党派が集団指導的に運営されていたことも、一つの特徴である。これは、元来、ネーデルラントが連邦共和制であり、全国会議のような合議システムも確立されていたことと関係していただろう。
 党争は、まず憲法の制定をめぐる綱引きとして現れた。1796年に招集された第一回国民議会では、オランダ革命における「旧体制」に相当する連邦制を護持しようとする保守派に対し、民主的な集権国家の樹立を構想する集権派が急進野党的な立場で対抗した。
 第一回国民議会では、保守的な連邦派が優位にあり、連邦国家の枠組みを残した形の憲法案が提示、承認されたが、1797年の国民投票では大差で否決されてしまった。これを受けて、改めて選挙により招集された第二回国民議会では、連邦派が辛うじて過半数を保持する状況であった。
 フランスでも、フリュクティドール18日のクーデターで急進派が権力を掌握する状況を追い風として、オランダの集権派は勢いを増し、独自の憲法案を提示した。新たに着任したフランス大使シャルル‐フランソワ・ドラクロワ(画家ドラクロワの父)も、集権派支持を鮮明にして、オランダ革命に干渉した。
 膠着状態の中、業を煮やした集権派は、フランスの支援の下、1798年1月、クーデターを起こして政権を掌握、連邦派議員を追放するとともに、各州の統治機関を廃止したのである。その結果、フランス革命の総裁政府に似た執政府が設置され、この体制下で、集権派の構想に沿った新憲法が国民投票で承認された。
 このようにして、オランダ初の民主的な近代憲法が成立する運びとなったのであるが、ピーテル・フレーデに率いられた執政府自体は民主的とは言い難く、権威主義的な傾向を強め、草の根の政治クラブの排除や、ドラクロワ大使の干渉による反革命派のパージなど、フランス革命のプロセスに近似する状況となった。
 このような独裁に続く路線は、オランダ革命では受け入れられなかった。そこで、反フリーデ派が98年6月に改めてクーデターを起こし、フリーデを追放した。このクーデターは反動的ではなく、執政府体制は維持しつつ、メンバー構成を替えただけであった。
 これにより、憲法党争にもいちおうの決着がつき、1798年憲法が施行されていく。以後、旧連邦制は解体され、1801年の反動クーデターを契機にナポレオンの介入によってオランダ革命が終息し、君主制に移行した後も、集権国家体制には変化がなかった。


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