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近代革命の社会力学(連載第45回)

2019-11-26 | 〆近代革命の社会力学

四ノ二 18世紀オランダ革命

(4)反動的軍事介入から崩壊へ
 独裁化の危険をクーデター手段により排除して再編されたバタヴィア共和国執政府は、間もなく二つの脅威にさらされた。一つは、反革命派列強の英国及びロシアによる侵攻である。
 1799年8月に開始されたこの作戦は、英露から見ればフランス革命と一体的なバタヴィア共和国を打倒すべく、旧支配層オラニエ家支持の反乱を起こさせることを狙ったものであった。
 英露連合軍は当初、有利に作戦を進めたが、仏蘭連合軍の反撃にあい、2万人近戦死者を出して撤収した。とはいえ、バタヴィア側も7000人の死者を出し、多くの艦船を喪失した損害は、生まれたばかりの小さな共和国にとって大きな痛手であった。
 もう一つの、かつ致命的な脅威はナポレオンであった。英露のバタヴィア侵攻作戦終了直前の99年11月、ブリュメール18日のクーデターで政権を奪取していたナポレオンは、周辺諸国を傀儡化するうえで障害となりかねないバタヴィアの民主的な1798年憲法には不満を抱いていた。そのため、憲法改正の圧力をかけ始める。
 バタヴィア執政府は、英露の侵攻を撃退するうえで恩恵のあったナポレオンに対して抵抗するだけの力はなく、ナポレオンの意向に沿った憲法修正を試みたが、これに対しては、98年憲法を擁護する勢力からの強い抵抗があった。ここで、バタヴィア駐留フランス軍司令官オジェロー将軍がクーデターで介入し、反対派を拘束・排除する非常手段に出た。
 こうしたフランスの軍事介入下で、1801年10月に憲法修正案が国民投票にかけられた。この投票では、棄権を賛成票とみなして集計するという強引な操作により、修正案は90パーセント近い賛成多数で承認されたものとされた。
 こうして成立した1801年修正憲法は、立法権の制限と今や国家評議会に改称された行政府の権限増強というまさにナポレオン流の権威主義的な指向性を持ったもので、1798年憲法からの明らかな後退を示していた。
 このような結果をもたらしたフランスの軍事介入は、フランスのブリュメール18日クーデターに相応する反動クーデターの性格を持ち、フランス革命同様、これ以降のバタヴィア共和国は終焉に向かうプロセスをたどった。1805年には、ナポレオン派のベテラン政治家ルトガー・シンメルぺニンクが大宰相に任命された。
 大宰相とは、旧ネーデルラント連邦共和国時代に実質的な連邦首相格だった古い官職で、革命により廃止されていたところ、ナポレオンがバタヴィアへの干渉を強める目的から復活させたうえ、操りやすい守旧派の人物を据えたものであった。こうした露骨な内政干渉に対し、バタヴィア側にはもはや抵抗する手段は何もなかった。
 これにより、18世紀オランダ革命は事実上、終焉したと言える。すでに1804年に皇帝に即位して帝政を開始していたナポレオンは、征服した欧州各国に親族を君主に据えた傀儡国家を作出しようとしていたが、バタヴィアにも同様の措置を適用した。1806年に実弟ルイを君主とするホラント王国を立て、10年には完全にフランスに併合したのである。
 ナポレオン帝政の崩壊後には、ウィーン体制下、オラニエ家が完全な君主として復権し、以後、共和制は復活することなく、今日まで立憲君主国として存続していく。
 このように革命によって成立した共和国が短期間で挫折し、改めて立憲君主国として純化されるという経緯をたどったプロセスは、17世紀の清教徒革命後のイングランドと重なるところがある。


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