ザ・コミュニスト

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共産教育論(連載第40回)

2019-03-11 | 〆共産教育論

Ⅶ 専門教育制度

(6)理工学院
 技術系の高度専門職学院として、各種の技師を養成する理工学院も想定される。共産主義社会における技師は大きく分けて各種工学技師と、特に環境工学を専門とする環境技師、さらに情報技術を専門とする情報技師に分けられる。環境技師が独立した職種となるのは、共産主義社会の特色である。
 このような三種の分類に合わせて、高度専門職学院としての理工学院の内部編成も、一般工学科と環境工学科、情報学科に分けることが可能である。このうち、一般工学科は、機械や土木など伝統的な工学関係の技師の養成を担う。その細分類は多岐にわたるので、各理工学院ごとに特色ある重点化がなされることになるだろう。
 環境工学科は、環境技師の養成を担う。種々の環境保全技術を専門とする環境技師は、環境的持続可能性を高度に追求する共産主義社会では社会設計全般の土台を作る重要な技術職であり、その養成も理工学院の役割である。
 情報学科は、情報技師の養成を担う。賃労働によらない自発的無償労働が基本となる21世紀以降の新たな共産主義社会では、多くの労働が資本主義社会以上に高度にロボット化/AI化されることになるため、情報技師の役割は飛躍的に重要性を増すだろう。
 そこで、共産主義社会の情報技師にはプログラマーやシステム・アドミニストレーター、セキュリティー・エンジニアのような既存の専門職に加えて、ロボット/AIの運用を専門とするロボット/AIエンジニアのような新たな専門職も加わる。
 広義の情報技師には、情報処理を専門とする情報技師の他に、情報機器の機械的な構造を専門とする情報技師もあり、いずれも工学院における専門的な教育を経て公的な資格を認定される高度専門職と位置づけられる。
  ちなみに、資本主義社会では技師職の資格認定は主権国家ごとに異なっているが、世界共同体の下に統合される共産主義社会では技師職の認定は統一的な基準の下、全世界共通の認定試験によって行なわれるようになる。なお、同様のことは医師についても妥当するが、詳論は割愛する。

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共産論(連載第16回)

2019-03-08 | 〆共産論[増訂版]

第3章 共産主義社会の実際(二):労働

(1)賃労働から解放される(続)

◇「賃奴解放」宣言
 近時世界中に広がる資本至上主義政策の結果として労働条件が悪化する情勢の中、賃労働者もいっそ賃労働から足を洗い、自ら起業し、資本家となろうではないかとの呼びかけも聞かれる。つまり、搾取される側から搾取する側への攻守転換である。
 たしかに、一介の労働者から資本家へ華麗なる転身を遂げる成功者も存在するのだろう。しかし、賃労働者が全員資本家に転身してしまえば資本主義は労働力を失い、それこそ崩壊してしまう。よって、大多数の人は賃労働者であり続けるよりほかないように作られているはずである。新規起業者の大多数が5年と持たないのも必然である。
 実際、資本主義的な商品‐貨幣交換のシステムでは、日常必需的な財・サービスまですべて商品として貨幣交換を要求されるから、生活のためには何はさておきひとまずは賃労働をして生活費を稼がなければ生存そのものが維持できなくなる。その意味では資本主義的賃労働こそ、まさに「強制労働」の世界と言えるのである。
 とはいえ、賃労働者は前近代の奴隷のように直接に人身売買の対象とされるわけでないことはもちろん、労働市場ではどの雇用主と契約するかは求職者の自由とされている。しかし、その一方で賃労働者は生活のため繰り返し労働市場に立ち現れ、自分の労働力を買ってくれる雇用主を探さなければならないし、首尾よく雇用主が見つかっても必ず何らかの形で搾取され、雇用主の都合で賃下げされたり、解雇されたりすることも甘受しなければならない。
 どの雇用主からも有用な労働力として評価されなければ長期失業・無職を強いられるが、近時問題化しているそうした「労働からの排除」も、その実質は搾取の裏返しとしての排除現象である。つまり失業とは、資本側から見れば、そもそも労働力として搾取すらしないという方向での究極的な人件費節約手段である。資本家は好況時でも余剰人員を抱え込むことには警戒的であるから、資本主義経済において文字どおりの「完全雇用」はあり得ず、資本主義経済とは好況時でも一定の失業を伴う「失業の経済」である。
 こうして賃労働者は、資本家から見れば一定の知識・技能を含めた労働という独特の無形的なサービスを提供する生ける商品なのであり、そのようなモノとして、賃労働者は労働市場を通じて総資本に使い回され、反対に労働から遠ざけられもする存在となる。この意味において、マルクスは賃労働者を厳粛に「賃金奴隷」と呼んだのであった。
 とはいえ、現代における合法的な賃労働者は文字どおりの奴隷のように売買され、逃亡できないよう拘束されているわけではない点を考慮すれば、同様に相対的な人身の自由が保証されていた中世の農奴に近い存在として、「賃奴」と呼ぶほうがふさわしいだろう。
 してみると、資本主義経済とは、労働の視点から見れば、「賃奴制」の経済システムであるとも言える。一方、共産主義社会ではこうした賃奴制経済が転換されるのであるから、これは農奴解放ならぬ「賃奴解放」を意味する。実際、これこそが、共産主義において最も革命的と言える点なのである。

◇労働と消費の分離
 賃労働者は労働搾取の結果として与えられる賃金を生活費に投入するが、今度は消費という形で賃金収入の相当部分を様々な財・サービスの対価として費消させられ、もう一段の搾取をされる。
 マルクスは専ら第一段の労働搾取に焦点を当てたが、第二段の搾取―消費搾取―には大きな関心を向けなかった。しかし、今日における労働法制上の規制の下、あまりに野放図な労働搾取が制約される資本にとって、消費搾取はその補充手段として不可欠である一方、賃労働者側の生活苦・貧困は、労働と消費の二段にわたる搾取の結果生じるものである。
 こうして、資本主義経済は野心的かつ効率的な金儲けのためにはまことに合理的なシステムと言えるが、つましくも充足した生活のためには理不尽なシステムなのである。
 これに対して、共産主義社会にあっては貨幣経済‐賃労働制の廃止によって労働と消費が分離されるため、労働とは無関係に必要な財・サービスが無償で取得できるようになり、低賃金や失業ゆえの生活苦・貧困という問題も消え去る。これはまさに生活革命である。
 しかし、ここで疑問が浮かぶかもしれない。人々が労働と全く無関係に、望むだけ財・サービスを無償で取得できるとなると、独り占めや需要者殺到による品切れも頻発し、かえって早い者勝ちの弱肉強食的不平等社会になりはしないか、と。
 この疑問に答えるべく、マルクスは「労働証明書」なる仕組みを提案している。単純な例で言えば、1日8時間働いて8時間分の労働証明書の発行を受けた労働者Wは同じく8時間労働によって製造された物品Pを証明書と引き換えに取得できるというのである。
 この労働証明書は商品券に似るが、単なる引換券とは違って労働時間に基づく引換請求権が化体された一種の有価証券の性質を持つ。要するに、労働者は自ら働いた労働時間に相当するだけの物品を取得できるという考え方である。これによって労働と消費は関連付けられるのであるが、資本主義の下におけるように賃金を介するのでなく、労働時間そのものが直接に消費と連動し等価交換される。
 これは理論的に成り立つが、しかし、一つの机上論である。そもそも物品Pが何時間労働分に相当するかを厳密に計量することができるであろうか。
 仮にPの製造に要する平均的労働時間という粗数値を置くとしても、例えばWの担う労働は初心者でもこなせる単純労働であるのに対し、Pの製造に要する労働は熟練を要する複雑労働であるというように、質的に全く違っていたら、Wの担う8時間労働とPの製造に要する8時間労働を単純に等価値とはみなせないことになる。
 そうした労働の質的差異まで反映した精緻な労働証明書のシステムを構築することは事実上不可能と言ってよい。ただ、マルクスはこのような労働証明書のシステムを「資本主義から生まれたばかりの共産主義社会」に固有の過渡的な制度として示し、「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて」の原則が妥当する共産主義社会の高度な段階では労働と消費の完全な分離を認めているのである。
 しかし結局のところ、共産主義社会ではその発展段階のいかんを問わず、労働と消費の分離を認めるほかはない。それによって生じかねない早い者勝ちを防止するためには、前章でも示唆したように、各人が取得することのできる物品の数量を一回につき一人当たり何個とか何グラムというように規制し、現在の商店における会計に相当する手続きでこの取得数量の確認を行えばよい。
 それでもなお生じるかもしれない品不足に対応するには、これも前章で指摘したとおり、日用消費財の分野では生産組織に余剰生産を義務付けて相対的な過剰生産体制(十分な備蓄を伴った生産体制)を採ることである。

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共産論(連載第15回)

2019-03-07 | 〆共産論[増訂版]

第3章 共産主義社会の実際(二):労働
Chapter 3  Sketch of Communist Society (2):Labor

共産主義社会では働いて賃金を得る賃労働が廃止される。その結果、人々はもはや働かなくなるのであろうか。それとも全く新しい働き方が生まれるのであろうか。


(1)賃労働から解放される:People attain liberation from wage labor.

◇賃労働の廃止
 前章で、共産主義社会では商品生産が廃され、ひいては貨幣経済も廃されることを論じた。ここから必然的に、労働の報酬が貨幣=賃金として与えられる賃労働制も廃されることは見通しやすい筋であろう。共産主義社会に移行するとは、労働の視点から見れば賃労働制の廃止を意味するのである。
 このことが共産主義=強制無賃労働の収容所群島などといったよくある反共プロパガンダに根拠を与えないためにも、ここで資本主義的労働のあり方と対比しながら考えてみたい。

◇資本主義的搾取の構造
 現在、世界に拡散している資本主義的賃労働とはどんなものであろうか。これは多くの人が経験しているとおり、求職者が仮想上の労働市場を通じて雇用主(資本企業のほか、公共機関も含まれるが、以下では資本企業で代表させる)の求人に応じ、採用されれば雇用契約を結んで、雇用主の定めた労働時間内に指示された労働を提供し、その報酬として賃金を受け取るという仕組みである。
 ここで、賃金という労働者の生活の資―言わば労働者にとっての“資本”―となる最も大切なものが最も曲者なのである。法的には賃金は労働の報酬と解釈され、労働者自身もそう認識しているであろうが、実際に働いた時間分の報酬を満額支払われている労働者はまずいない。もし雇い主がそのような大盤振る舞いをしようものなら経営は回らなくなるからである。
 資本主義的経営の要諦は労働者の賃金を1円でも節約する一方、1分でも長く働かせること、すなわち低賃金・長時間労働の搾取である。ただ、労働運動の成果として、今日では、資本にとってはわずらわしい労働法制上の規制(例えば法定最低賃金や法定労働時間)が諸国にあるため、必ずしも文字通りに搾取を達成できるとは限らない。
 そこで、法定労働時間内で高い成果を要求する(高密度労働)、相対的に高賃金を保障しつつより高い成果を競わせて慣習的な超過時間労働を仕向ける(サービス残業)、逆に低賃金に見合った短時間・部分労働しかさせない(パート労働)等々、合法・非合法のグレーゾーンを含む様々な抜け道的な術策が“発明”されている。他方で、役員一歩手前の上級管理職級労働者になると、逆に実質的な労働時間分を超えたプレミアム付き高賃金が保障されることもある。
 とはいえ、総じて資本企業は労働者に実質的に賃金を支払っている労働時間分を超えたタダ働きをさせていることは間違いないのである。
 例えば、ある労働者が1日8時間・週5日働いて本来は時給換算で5千相当分の密度の高い仕事をしているとしても、実質上は半分の4時間労働分しか支払われていないということもあり得る。この場合、その人は本来ならば{(5千円×8時間)×5日}×4週=80万円の月給を得べきところ、現実にはその半分の40万円に値切られていることになる。
 支払われていない残りの40万円を雇用主は丸々節約したのであり、当該労働者は日々の8時間労働のうち4時間分はタダ働きさせられ、要するに「搾取」されたことになる。合法的な範囲内の給与水準に対する労働者の不満は、こうした搾取の構造に由来している。
 このようにして雇用主たる資本企業が節約的に搾取した分はかれらの商品販売による利益に反映され、利潤として蓄積・再生産に回されていくことになるが、このサイクルを総資本で繰り返しながら資本主義は自転している。(※)
 資本家の視点から見れば、かれらは節約的搾取によって得た利得が利潤として確保されるように自社商品を売り込まねばならないわけである。経済危機で販売不振に陥れば、賃金をいっそう節約するか、人員解雇するかしなければ生き残れない。なかなか厳しい世界である。
 ここで資本家を弁護するつもりはないが、搾取にいそしむ資本家たちは―強欲ではあっても―決して意地悪なのでも冷酷なのでもない。かれらとて資本主義的経済法則に従属させられている以上、その法則に反することはできないのである。マルクスは資本家も社会的機構の中では「一つの動輪でしかない」と看破したが、これは全く正しい。

※マルクスは、こうした搾取の構造をより積極的に剰余価値の生産過程として解析しているが、ここではマルクスの理論はさしあたり棚上げして論じている。

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犯則と処遇(連載第36回)

2019-03-05 | 犯則と処遇

30 検視監について

 犯則捜査における科学捜査優先の鉄則を実践するうえで、変死体の検視は事件性の判断に重要な役割を果たし、その誤りは冤罪にもつながる。そこで、正確な検視のためには法医学の知見と技能が必須であることから、検視は通常の科学捜査員ではなく、法医学専門家に委ねなければならない。

 しかし、日常すべての検視を医師免許を有する法医学者が担うことは困難なため、検視を専門とする特別職の制度が要請される。これが検視監である。
 検視監は、医学の一分野としての法医学の研究や死因鑑定を任務とする法医学者とは異なり、医師免許が不要である代わりに、試験任用制を採用する。
 すなわち、検視専門員試験に合格した後、法医学に関する実務研修を修了した者を検視監補に任ずる。検視監補は、検視監の指揮の下、現場の検視業務を行う。さらに、検視監補として所定年数の経験を積んだ者の中から、検視監を任命する。

 このように、検視監及び検視監補は法医学の知識を有する実務者ではあるが、法医学者ではないため、在職中も退職後も、法医学者として鑑定業務に従事することはできない。検視監または検視監補が法医学者となるためには、改めて医師免許を取得する必要がある。

 検視監は、一定の地域ごとに設置される検視事務所の所長を兼ねる。検視監は司法職ではないが、司法職に準じた独立性を保障され、検視監による検視は人身保護監の命令に基づき、捜査機関から完全に独立して実施される。
 検視過程を透明化するため、事件性の認められる検視結果は必ず人身保護監が主宰する公開の検視審問を通じて検証する。人身保護監が検視結果を適正と認めたときは確定力を持ち、捜査機関等もこれに拘束される。
 なお、人身保護監が検視結果の確定上必要と認めたときは、検視審問に3名以内の法医を参与させ、その意見を徴することができるものとする。

 ちなみに、検視事務所は事件性の有無にかかわらず、変死体全般に対する検視の任務を負うため、明らかに事故や自殺による変死体や医療過誤疑いのある変死体の検視も行なう。そのため、検視事務所は犯則捜査を越えて、あらゆる死因究明の総合センターのような役割を担うことになるだろう。

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犯則と処遇(連載第35回)

2019-03-04 | 犯則と処遇

29 人身保護監について

 犯則捜査は、前回見た三つの鉄則を捜査機関が着実に履行したうえ、なおかつ外部の独立した統制者による事前の法的統制を受けることで、その適正な実施が担保される。
 その点、「犯罪→刑罰」体系下の捜査活動においては、各種捜査令状を発付する権限を持つ裁判官が捜査活動を統制することが標準モデルとなっている。これは近代法の一つの進歩の証であるが、裁判官は「中立」というドグマに縛られるあまりに、市民の権利の擁護という意識が背後に退きがちである。

 そうした欠陥を克服すべく、「犯則→処遇」体系下での捜査活動において、捜査活動を統制する中心的な役割を果たすのは人身保護監である。
 人身保護監は、文字どおり市民の人権擁護そのものを任務とする公的な司法職の一種であるが、裁判官ではなく、まさに人権擁護に専従する公職である。
 人身保護監は、すべて民間の法曹の中から任期をもって常勤専従職として任命され、官僚的な職階制や昇進制による人事管理を受けることなく、また任命された任地から転任することもなく、任期満了をもって退任するか、本人の希望により承認審査のうえ再任されるかするだけである

 人身保護監の任務の最も重要な柱は、捜査活動に対する法的統制、中でも市民の権利を制約する強制捜査活動の規律である。その方法として、捜査機関による捜索・差押や出頭命令、身柄拘束、通信傍受・監視撮影などを許可する各種令状の審査と発付である。
 それに付随する権限として、各種強制捜査に対する対象者からの異議申立てへの対応や、被疑者の身柄拘束場所となる留置施設の人権監査などの監督権限も保持する。

 さらに、後に詳論するように、人身保護監は捜査機関が捜査を終了した後、捜査機関が収集した全証拠の送致を受けたうえ、真実委員会を招集して正式に真相究明するかどうかの決定権も有する。
 この点では、「犯罪→刑罰」体系下における公訴官(検察官)の任務に類似するが、「犯則→処遇」体系においては、訴追というプロセスを踏まないので、人身保護監は公訴官とは似て非なるものである。
 なお、人身保護監は真実委員会の決定に不服のある当事者からの請求を受け、別の真実委員会を再招集する権限を持つが、これについても、後に再言する。

 こうした公的な犯則捜査にまつわる権限以外にも、人身保護監は私人によって不法に監禁され、または奴隷的な拘束状態に置かれている人を救出するために、人身保護令状を発付する権限を有する。同令状の発付を受けた者は、監禁・拘束場所に強制的に立ち入り、妨害を物理的に排除しつつ、被害者を保護することができる。

 さらに、長期行方不明者に対する正式の捜索保護命令や失踪宣告、原因不明の変死体に対する検視命令など、人身保護監はおよそ市民の人身に関わる広範な権限を持つ重要な司法職である。
 特に後者の検視命令に関しては、例えば医療過誤の疑いある死亡者の遺族からの請求に基づき、検視命令を発し、医療過誤の可能性について明らかにすることができる。ただし、医療過誤の審査そのものに人身保護監が関与することはない。

 人身保護監の発した令状もしくは命令によって義務付けられた行為をせず、または令状もしくは命令の執行を妨げる行為をした者は、司法妨害による制裁を受ける。
 司法妨害はそれ自体も犯則行為の一種であるが、一般的な犯則行為とは異なり、矯正処遇の対象とはならない。その代わり、人身保護監の命令に基づき、司法妨害を理由に30日未満の期限で拘留することができる。
 ただし、司法妨害による拘留中に、捜査員が本件での取り調べをすることは許されず、人身保護監は以後、司法妨害行為をしない誓約を条件に対象者を釈放することができる。

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共産論(連載第14回)

2019-03-02 | 〆共産論[増訂版]

第2章 共産主義社会の実際(一):生産

(6)エネルギー大革命が実現する

◇新エネルギー体系
 共産主義的環境計画経済は、生産活動を支えるエネルギー供給のあり方にも大きな変革をもたらすであろう。
 持続可能的計画経済は、エネルギーの面から見れば、「低エネルギーの経済」を実現するから、産業革命以来の資本主義的生産体制を支えてきた化石燃料、とりわけ石油燃料への依存度を大胆に減少させることは確実である。それに代わって、再生可能エネルギーを主軸とする新しいエネルギー体系が構築される。
 再生可能エネルギー導入の促進という課題自体は、地球温暖化問題を背景として従来から叫ばれてはいるものの、自然エネルギーなどの再生可能エネルギーだけでは資本主義的な大量生産‐大量流通‐大量廃棄のサイクルをまかなう高エネルギー需要に対応し切れないことや、再生可能エネルギーの技術開発・実用化には相当なコストを要するなどの事情から、資本主義の下ではスローガンに終わりがちである。
 しかし、本質的に低エネルギー経済である共産主義経済においては、再生可能エネルギーの利用が大幅に促進されるであろう。そして貨幣経済の廃止は、再生可能エネルギーの技術開発・実用化に伴うコストという「問題」―要するにカネの問題―自体を消失させる。
 以上のようなエネルギー革命は、前節で触れたトランスナショナルな次元での持続可能な天然資源の管理体制が整備されることと相まって世界的規模で推進されるであろう。
 こうしたエネルギー体系に関する変革に相伴って、コジェネレーションのような新しいエネルギー供給システムの開発・革新が資本主義の下におけるよりも一層進展するであろう。
 この点に関して、共産主義では資本主義が誇る技術革新が停滞するとの批判もよく聞かれるが、資本主義的技術革新は専ら生産性向上のための技術開発に偏向しており、その中には環境的に有害な結果をもたらすものも少なくない。それに対して、共産主義的技術革新は、新エネルギー技術に代表されるような環境技術の点ではむしろ資本主義よりも顕著な進展を見せると考えられるのである。

◇「原発ルネサンス」批判
 ここでエネルギー問題を考えるうえで避けて通ることのできない大問題、原子力発電(原発)について触れておかねばならない。
 近年、地球温暖化問題を背景としつつ、「二酸化炭素を出さない発電手段」として原発の意義が見直され、旧ソ連末期のチェルノブイリ原発大事故(1986年)以来停滞していた原発の新設・増設計画が世界的に蘇生する「原発ルネサンス」と呼ばれる現象が生じていたところへ、「原発安全神話」に包まれていた日本で福島原発大事故(2011年)が発生し、「ルネサンス」は打撃を受けたかに見えた。
 しかし、チェルノブイリがそうであったように、フクシマも時の経過とともに風化し、「ルネサンス」が蘇ってくる兆しも見え始めている。その際には、安全対策・技術の進展が口実とされる。
 だが、いかに技術革新が進展しようと、安全性に100%の保証はない。そのことをまざまざと世界に思い知らせたのが、地震・津波に起因する福島原発大事故であった。仮に大事故に至らなくとも、重大故障のつど炉を停止させ、厳重な点検の後、地元住民の了解を得なければ運転再開できない原発は、電力の安定的・継続的供給という視点から見ても、決して効率的とは言えない。
 第二に、核廃棄物等の処理・処分問題である。原発が排出する種々の放射性物質の安定化にはほとんど歴史的な時間を要するものも少なくない。また使用済み燃料の再処理で排出されるプルトニウムは発ガン性が高く、極めて長期にわたって生態系に悪影響を及ぼすとされる。ウランにプルトニウムを混ぜたMOX燃料(混合酸化燃料)を再利用するという方策(いわゆるプルサーマル)も、コストがかさむわりにプルトニウムを減じる効果は高くないとの批判がある。
 第三は、プルトニウムの軍事的利用の危険である。特に、好戦的な核兵器保有国や核兵器開発への野心を持つ諸国への原発の拡散はこの危険を増し、最悪の場合、核物質が闇市場を通じて麻薬カルテルなどの犯罪組織を含む民間武装組織や個人にすら流れる「核の私物化」という恐るべき事態も決して杞憂ではない。
 第四に、計画経済という観点からすれば、電力需要に応じたきめ細かな電気出力調整がしづらいという原発の特質は、計画経済に適していない―逆に、大量出力はたやすいので大量生産型の資本主義的エネルギー源としては適しているのであろう―ことも挙げられる。

◇「廃原発」への道
 とはいえ、本質的に高エネルギーの資本主義的生産様式を維持する限り、再生可能エネルギーだけでは必要な電力供給をまかない切れず、かつ二酸化炭素排出量の多い火力発電にも依存できないとなれば、原発への傾斜が生じることには必然性があり、原発問題も生産様式と無関係に論ずることはできない。
 もし我々が本気で「脱原発」を越えて「廃原発」を考えるのであれば、資本主義とはきっぱり決別する覚悟を決める必要がある。そして低エネルギーの共産主義的生産様式へ移行すれば、再生可能エネルギーや天然ガス、そして最小限の火力発電によって全生産活動をまかなうことができるだろう。
 仮にまかない切れないとしても、全生産活動を原子力以外の発電手段によってまかなうことのできる範囲内におさめなければならない。なぜなら資本主義的市場経済の下では生産活動の単なる手段にすぎないエネルギーも、生態学的に持続可能な共産主義的計画経済の下ではそれ自体が生産活動の規定条件となるからである。
 かくして共産主義こそが「廃原発」への道なのであるが、すでに世界中に原発が拡散してしまっているからには、その道は地球規模での「脱原発計画」を通じて不断に開拓されていかざるを得ない。
 そのためには「世界脱原子力監視機関」といったトランスナショナルな機関を設立して全世界的な規模で「脱原発計画」を策定・実行していく必要があるが、これもまた、最終章で見るような「世界共同体」の創設にかかってくることである。

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共産論(連載第13回)

2019-03-01 | 〆共産論[増訂版]

第2章 共産主義社会の実際(一):生産

(5)土地は誰のものでもなくなる

◇共産主義と所有権
  資本主義において、所有権という観念は神に匹敵する地位を占めているが、中でも土地所有権は所有権中の所有権、言わば資本主義の一丁目一番地である。
 そこで共産主義社会においてこの肝心な土地所有権がどうなるかということは最大の関心事となるであろうが、その問題に進む前に、一般的に共産主義における所有権についての考え方を整理しておく。共産主義と聞けば私的所有権を剥奪されるといった反共プロパガンダはおなじみのものであるが、以下に見るようにそれは誤解である。
 まず、言うまでもないことではあるが、日用の一般的消費財については完全な個人的所有権が認められる。例えば我々が今着ている上着や下着は共産主義社会の下でも自身の私物である。しかし、家具とか家電製品のような物は「社会的共有財」として無償で貸与されるようになる。
 こうした大きな消費財は廃棄するとなるといわゆる「粗大ごみ」となりやすいので、すべて社会的共有財としたうえで、使用を終える時には廃棄するのでなく返却して耐用年数が到来するまで―前述したように、「耐用の経済」である共産主義経済では生産物の耐用年数は長めに設定される―再貸与するという形でリユースを続けることにより、粗大ごみの排出量を抑制することができる。それを考えれば、将来の粗大ごみにまで所有権を認めるよりも合理的であることが理解されよう。
 以上の「社会的共有」と類似の用語として、前に共産主義的生産組織の項で見た「社会的所有」がある。これは基幹産業を中心とする生産事業体のあり方を規定する概念であった。
 この点については私的所有権の剥奪であるように思われるかもしれないが、すでに資本主義経済の下でも基幹産業分野の株式会社はほとんどが株式市場に上場された公開会社であって、それらはもはや単なる資本家個人の私物ではなく、半社会化された公衆的所有の対象となっていることからしても、「社会的所有」とは資本主義の内部ですでに始まっている「資本の社会化」という現象を数歩―その歩幅は決して小さくないとはいえ―前に進めるだけのことだとも言えよう。
 ここで、本題の土地問題へ入る前に、土地とも密接に関連する住宅問題についても触れておきたい。まず結論から行けば、住宅にこそ、共産主義は究極の所有権を見出す。なぜなら、住む場所を「持つ」ということは人間にとって根源的な所‐有だからである。であればこそ、住居の喪失はほとんど人間であることの否定となりかねないのである。
 資本主義経済は住宅の賃貸を商業資本化し、大量の借家人すなわち住宅を所有せず、賃料の支払いができなければ住居を喪失する人々を発生させてきたが、これこそ根源的なレベルで資本主義の非人間性を示す現象とも言える。
 共産主義の下でも借家制度はあり得るが、貨幣経済が廃される以上もはや「賃貸」はあり得ず、無償の使用貸借が本則となる。しかも地方自治体などが提供する公共的な借家にあっては、原則として終身賃借かつ世代間継承も可能な使用貸借権を設定することにより借家権を実質的に所有権化することも実現する。
 一方、民間人が提供する私的な借家にあっては、賃貸の廃止により賃料収入を得ることができなくなる賃貸事業者は自ら所有権を放棄すると予測されるから―個人の家主も住宅貸し出しから手を引くであろう―、それらはすべて公的機関が継承し、公共的借家に転換するであろう。 

◇土地私有制度の弊害
 おそらく共産主義に対して最も神経を尖らせるのは、やはり地主層―土地を所有する法人企業組織を含む―であることは間違いない。かれらは自身の存在証明である土地所有権の剥奪を何よりも恐れるからである。
 ちなみに集産主義体制では土地の国有化が国是であり、集産主義から「社会主義市場経済」に舵を切った中国でも、土地国有制は次第に形骸化しながらも法的な大枠としては維持されている(中国憲法第10条参照)。その点、共産主義は「国」という観念を持たないのであるから、土地「国有」もあり得ない。そうすると、地主の神経を鎮めるべく土地所有権は温存されるのであろうか。
 答えはノーである。それにしても共産主義はなぜ土地私有制度に否定的なのか。それは人類がこれまでに創出した様々な経済的制度の中でも土地私有制度ほど奇妙かつ有害な制度はないからである。
 まず、それは何よりも地球の私物化であるという点において不遜である。地球という天体の構成要素たる大地を〈私〉のものにしようというのだからである。
 しかも全き自然の産物である大地にも価格=交換価値を付けて投機の対象とする。このように本来商品たり得ないモノに無理やり商品形態を与えて投機を助長することが株式投機と並んで実体経済を離れたバブル経済の形成要因ともなり、また「地上げ」のごとく居住権を侵害する不法な土地取引も横行させる。
 20世紀中には、少なからぬ諸国で寄生地主制のような階級的悪制は解体された一方、世界には21世紀に入っても依然として大土地所有制のような形態が温存され、農民を搾取・抑圧している例も少なくない。
 もっとも、大土地所有制が解体され土地所有が小口に分割された小土地所有制ならば問題がないというわけでは決してなく、まさにそれが土地投機の対象となるほか、都市計画に際しては細分化され入り組んだ私有地が障害となり土地の有効利用を妨げたり、資本企業が所有する遊休地や商業用地が宅地不足の要因ともなる。錯綜した土地所有権を巡る紛争はすべての所有権紛争の中で最も深刻であり、しばしば当事者が生命まで奪われることは、周知のとおりである。
 かくして、あらゆる私有制の中でも最も有害な土地私有制度の廃止が目指されるのである。

◇共産主義的土地管理制度
 先ほど、共産主義にあっては土地の「国有化」はあり得ないと論じた。すると、土地は誰のものになるのか。肩すかしのような答えであるが、土地は誰のものにもならない。それは天然の産物として、無主の自然物―野生の動植物のように―として扱われるのである。
 このときに、“神の所有”とか、それに類する超自然物な観念を援用する必要はない。共産主義はどこまでも世俗的な思想であり、理論だからである。
 このように、土地を誰にも属しない無主物として把握するとしても、実際の土地の管理をどのように行うかという問題が残る。この点、共産主義社会に「国」は存在しないとはいえ、領域的な施政権が及ぶ範囲(これを「領域圏」と呼ぶ。詳しくは第4章参照)というものは存在し、この領域圏の統治機関―領域圏民衆会議―がその領域圏内の全土地の管理権―所有権ではない―を保持するという考え方で解決し得る。
 具体的に言えば、例えば日本(日本領域圏)の領域内にある全土地を領域圏民衆会議―もっと具体的には民衆会議が監督する土地管理機関―の管理下に置くという構制になる。
 これにより当該領域圏内にある土地は土地管理機関の許可なくして使用・収益・処分することができなくなる。そのうえで、個人の住宅や私的な団体の施設の敷地については、住宅または施設の所有者(法人を含む)に対して、その住宅または施設の使用に必要な限度内での土地利用権を保障する。この土地利用権は原則として無期限のものとし、土地管理機関の許可に基づく(無償の)譲渡・貸与も可能とする。
 ただし、農地については、先述した農業生産機構が一括して恒久的な利用権(耕作権)を保有することになる。

◇天然資源の管理
 改めて最終章でも論じることであるが、土地のみならず、地中に埋蔵されている天然資源についても、共産主義はそれらを無主物としてとらえる。
 例えば石油である。今日、石油はそれを埋蔵する土地を領土―第4章で詳しく見るように、共産主義は国家レベルにおける政治的な土地所有制度とも言うべきこの「領土」という概念にもメスを入れるが―に持つ国家の専有物であるかのごとくにみなされ(資源ナショナリズム)、こうした産油国の利害と投資家の思惑とが日々複雑に絡み合いながら、石油が投機対象の性格を強めて燃費を左右し(資源資本主義)、ひいては末端に位置する一般生活者層の生活を直撃する要因ともなっている。
 しかし、石油はその有限性と石油燃料の環境負荷性とを考慮し、他の重要な天然資源とともにトランスナショナルな天然資源管理機関の管理下に置かなければならない時期に来ている。
 ただ、そのようなことが完全に可能となるためには、最終章で見るように、まさにトランスナショナルな統治体たる「世界共同体」の創設を待たなければならないのではあるが。

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