第3章 共産主義社会の実際(二):労働
(2)労働は全員の義務となる?:Are all the member of society obliged to work?
◇労働の義務と倫理
共産主義社会では貨幣経済‐賃労働制が廃され、労働とは無関係に各自の需要を充たすための財・サービスが取得できるとなると、もはや人々は労働そのものから退いてしまわないか―。
実はこれこそ共産主義における最大のボトルネックとなる問題であって、マルクスが共産主義の初期段階における労働システムとして労働証明書の制度を提起した隠れた理由でもあったと思われるのである。「資本主義から生まれたばかりの共産主義社会」の労働者たちは、資本主義時代の経験から、生活の必要に迫られて労働する―逆に生活の必要に迫られなければ労働しない―という選択的強制労働の世界に慣れ切ってしまっているからである。
しかし、労働証明書のようなシステムも実用性がないとすれば、共産主義の少なくとも初期には労働を罰則付きで全社会成員に義務付ける必要があるかもしれない。そうすると、やはり共産主義社会は強制無賃労働の収容所群島ではないか、との非難が集中しそうである。
とはいえ、考えてみれば、資本主義にあっても労働は義務とは言わないまでも最重要の倫理―勤勉―とされているはずである。これをマックス・ウェーバーはプロテスタンティズムの倫理観と結びつけたが、プロテスタンティズムが優勢ではない社会でも事情は変わらない。例えば、日本国憲法27条1項は「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う。」と定め、勤労の権利性とともに義務性をも併記している。
ところが、資本主義的“勤勉”の世界にあっては、生活の必要に迫られる限りにおいて労働(賃労働)が事実上強制される一方、必要に迫られないならば―例えば親族から莫大な遺産を相続した場合―、労働せず遊び暮らしても何の咎めもない。
そうすると、資本主義社会における勤勉の倫理など、しょせん資本が必要とする労働力を提供すべき一般大衆に向けた勤労奉仕の動員命令にすぎないのではなかろうか。
それに対して、共産主義社会の初期において―やむを得ず―課せられる労働義務は経済的動員命令ではなく、共産主義の本質が社会的協力(=助け合い)にあることに由来する全員の社会的義務―全員といっても基本的には中核的労働世代、具体的にはおおむね20歳から60歳までの者に課せられるだろう―である。
その点で、ケインズが資本主義のエートスである「貨幣愛」と対比して、共産主義のエートスを「社会への奉仕」と表現したのは、やや奉仕性を強調しすぎるきらいはあるものの当たっていなくはない。
◇職業配分のシステム
ここで、労働を義務化すると画一的な職業配分がなされ、職業選択の自由が奪われるのではないかとの懸念があるかもしれない。
しかし、この「職業選択の自由」という資本主義的テーゼがまた曲者である。「自由」とはいうものの労働市場で主導権を握っているのは常に資本側(経営側)であるから、前節でも指摘したとおり、資本主義経済とは好況時でも一定の失業を伴う「失業の経済」であり、また求職者の志望や適性・技能と労務内容の齟齬によるいわゆるミスマッチも茶飯事となる。
これに対して、共産主義社会では労働を義務化すると否とにかかわらず、職業紹介所の役割が強化され、計画的な職業配分のシステムが構築されることになるが、そのことが直ちに画一化につながるわけではない。むしろ資本主義社会における職業紹介のように、単に求人票を集めて求職者に紹介するだけの形式的なあっせんにとどまらず、各人の志望や適性・技能を十分に勘案しつつ、心理テストなども活用した科学的なカウンセリング型の職業紹介が実現するからである。
このシステムにおいて、中核的労働世代の社会成員は全員が地域の職業紹介所に登録され、紹介所を通じてできる限り住居から近傍の範囲内で適職を見出せるように工夫されるから(職住近接)、今日のような「通勤地獄」も解消されよう。
なお、労働を罰則付きの義務とする場合、例えば一定期間以上全く就労していない登録者は職業紹介所から就労しないことに正当な理由があるかどうかを調査されるといった必要最小限度の介入措置の導入はやむを得ないかもしれない。
その一方、第6章で見るように、成人向けの「多目的大学校」といった制度を通じて職業訓練が充実するから、いわゆるニート化や長期失業は防止できると考えられる。
◇労働時間の短縮
このような計画的な職業配分システムが導入されることによって、労働時間の大幅な短縮も可能となる。資本主義の下では賃下げの口実とされかねないワークシェアリングが、そうした特別な言い回しも不要なほどに基本的な労働形態として定着するだろうからである。
こうして、各人が現在よりもずっと短い時間働く―たとえ義務付けられるとしても―代わりに、各自の趣味や“夢”の実現に充てることのできる自由時間を獲得するほうが、生活のために事実上強制される労働に追いまくられるよりもはるかに「自由」の多い社会だと言えないであろうか。