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共産論(連載第21回)

2019-03-28 | 〆共産論[増訂版]

第4章 共産主義社会の実際(三):施政


共産主義社会では我々にとってなじみの深い国家も廃される。それはなぜなのか、また国家なき社会はどのように運営されていくのか。


(1)国家の廃止は可能だ

◇エンゲルスの嘆き
 共産主義社会とは社会的協力=助け合いの社会であるから、我々の上にそびえ立って我々を国民として支配し、かつ保護すると称する国家なる権力体も廃止される。
 もう少し理屈に立ち入ると、前章までに論じた貨幣経済の廃止とは、国家の視座から見れば国家が自国領土内で通用させる公式貨幣(通貨)を鋳造・発行する独占的な権力としての通貨高権が否認されることを意味している。この通貨高権は国家主権の中では政治的な領土高権と並ぶ最重要の経済的権力であり、その否認はほぼ国家の廃止と同義となる。
 もっとも、観念上は「通貨高権を持たない国家」を想定し得ないわけではない。しかしそれはまさに観念であり、たとえて言えば電池の入っていない携帯電話のようなものである。
 それはともかく、現実問題として国家を廃止することなどできるのだろうかといぶかられるかもしれない。その点、マルクスの共同研究者エンゲルスも、人々が社会の共同事務や利害は国家とその官僚なしには管理できないと子供の頃から信じ込まされていることを嘆いていた。
 こうした「国家信奉」は、マルクスとエンゲルスの時代にようやく西欧で形成され始めた国民国家がグローバルに普及した今日、ますます強まり、国家というものは本質的に良性の制度で、我々はいずれかの国家に属する民=国民となって初めて幸せになれるのだというような確信が大衆の間にも広く深く浸透しているものと思われる。
 しかし、国民国家の下における国民とはそんなに幸せいっぱいの存在なのであろうか。以下では「国民」の実態についてもう少しリアルな目でとらえてみよう。なお、ここでは特定の現存国家を想定するのではなく、モデル化された一般的な国家制度を前提とする。

◇「税奴」としての国民
 今日の国民国家は資本主義と固く結び合い、言わば資本主義の政治的保証人の役割を果たしている。その国民国家とはいかなるものか。
 それは領土と呼ばれる領域の住民から租税―今日ではほぼ貨幣による税金―を徴収する権力体のことである。従って、「国民国家」と言いながら実際には国内在住外国人からも税金を徴収する。その一方で、外国人は国民ではないという理屈から外国人には選挙権を保障しないのが一般である。取るものは取るが与えるものは与えない―。「代表なくして課税なし」は外国人に関する限り全くの空文句なのだ。(※)
 では、税を徴収される代わりに有り難くも政治的代表者を選出する選挙権なるものを与えられるようになった国民―普通選挙制度の歴史は決して古くないとはいえ―は、果たして税金の使い方を決定する可能性を万全に与えられているであろうか。
 そもそも税金は使途限定のひも付き献金ではないからして、ひとたび徴収してしまえば国家側がそれをどう支出しようと勝手である。不正な目的に費消されることすらある。そうした“不祥事”が運悪く発覚しても関係者が厳罰に処されるようなことはほとんどない。「選挙権の行使を通じて税金の使途をチェックする」など虚しい空文句にすぎないことは、冷めた有権者ならば認識されているであろう。
 にもかかわらず、国民国家は国民を国籍という法的枠組みにくくりつけつつ、国境と呼ばれる有形無形の有刺鉄線の内側に閉じ込めている。国民国家とはその大小のいかんにかかわらず巨大な人間の檻のようなものである。それも、国家が国民を累代にわたり国家にくくりつけておいて収奪の対象とするための安定的な仕掛けなのである。
 こうまで断じれば、国民国家の側からは「国民国家こそ民に国籍を与えて国境の内側で保護してやっているではないか」と反駁されるかもしれない。しかし、日頃「国民保護」を口にする国家は、とりわけ国家存亡の危機になれば、あっさり国民を見捨てる。そうした例は大小無数にあるが、身近なところでは大災害に際しての被災者放置は内外でよく見られるし、戦争―とりわけ敗戦―に際しての棄民も珍しいことではない。
 国民国家はなぜ必要とあらば国民を見捨てるのか。答えは簡単で、国家とは国民の保護機関などではなく、しょせん税金に寄生する役人と政治家、そしてかれらの最大の顧客である資本家との利害共同体であり、とりわけ発達した資本主義国家とは「全ブルジョワ階級の共同事務を司る委員会」(マルクス)にほかならないからである。
 国家における国民とは、ひとことで言えば「税奴」であり、この意味においてもかれらはプロレタリアートなのである。前章でも述べたことだが、今日のプロレタリアートの多くは賃労働者、すなわち賃奴(元賃奴の年金生活者を含む)であるから、ここに「賃奴≒税奴」という公式が成り立つことになる。

※現実には無税国家も存在し、または存在した。しかし、それは君主のような為政者によって私物化され、その私有財産によって運営される前近代的私領国家であるか、または国家が総資本家として生産・流通活動を包括的に掌握する集産主義体制であるかのいずれかである。いずれにしても、現代の国家としては異例にすぎない。

◇「兵奴」としての国民
 国民を収奪する国民国家はまた、ほぼイコール主権国家でもある。その主権国家とはいかなるものか。
 それは排他的な領土を持ち、領土そのものまたはそれに絡む経済的権益をめぐって互いに抗争し合う国家のことである。国家間抗争の究極が戦争であるから、主権国家とは戦争国家でもある。領土と主権とは一体となって戦争の掛け金となる政治的‐法的観念である。
 主権国家体制の確立に伴って、国籍と国境という概念の拘束性も強まったため、国民は国外へ一歩踏み出すにも国家の法的許可を要するようになり、国民はますます国家という檻に厳重に閉じ込められるようになった。このことにより、各国の国民たちはお互いに知り合うことが困難となり、むしろ「国益」なる大義名分のために敵対させられるようにさえなった。それは国民国家間の戦争を容易にする。
 戦争となれば、国民は国家によって兵士として動員され戦闘に従事させられる。兵士とならない国民も「銃後」で戦争に協力しなければならない。こうしたいわゆる総力戦は国民国家の下で初めて可能となった。20世紀前半の二つの大戦はその大きな“成果”である。
 総力戦に際して、国民は言わば奴隷ならずとも「兵奴」―末端兵士の地位には奴隷的束縛性が見られるが―として国家に使役される。しかも戦争の道具としての軍隊や兵器に投じられる軍事費の原資はほぼ税金であるから、税奴即兵奴であることには内的必然性がある。国民は、自ら拠出させられた税金によって戦争にも使役されることになる。(※)
 こうした兵奴化は、兵士の動員方法が徴兵制か志願兵制かにはかかわらない。志願兵制の下でも最も危険な前線に配置される末端兵士はほぼ例外なく労働者階級出身の青年たちであり、志願兵制が一種の失業対策事業の役割さえも果たしている。一方で厳重に警護された国家支配層の高官や将軍たちは戦争になってもかすり傷一つ負わず、戦況をテレビ観戦していればよいのである。
 これが“総力戦”の厳粛なる真実である。ただ、人類社会は総力戦と美化するにはあまりにも悲惨な犠牲をもたらした20世紀前半の二つの大戦にいくらかは懲りて、20世紀後半以降は総力戦に該当するような大戦はこれまでのところ引き起こしていない。
 しかし、国民国家=主権国家体制が維持される限り、いかに平和が装われても、しょせんそれは戦争状態の一時停止が続いているだけのことであり、世界から戦争の火種となる紛争は決してなくならず、局地的な戦争であればいつでもどこでも起こり得るし、実際に起きている。
 しかも、最終章で論じるように、戦争は軍需産業にとっての大きなビジネスチャンスでもある。そのために、かれらは政界に多額の献金をしてかれらの最大の顧客である主権国家を懸命に支え、時々戦争を発動してもらう必要があるのである。

※現実には軍隊を保有しない国も存在する。しかし、それらの国はほぼ例外なく財政的に軍隊を常備しにくい小国であり、代替的に大国に防衛を委託している。ちなみに、日本は憲法上は軍隊を保有しないと宣言されているが、実態として事実上の国防軍を保持していることは国際的に周知の事実である。

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