ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第278回)

2021-08-11 | 〆近代革命の社会力学

三十九 アラブ連続社会主義革命

(6)リビア革命

〈6‐2〉直接民主制理論と個人崇拝政治の乖離
 1969年リビア共和革命は、当初は汎アラブ主義・アラブ社会主義を指向するナセリスト革命と見え、事実、ガダーフィ政権はエジプトのナーセル政権と同盟しつつ、ソ連圏に接近するが、アラブ連続社会主義革命としては最終のものとなった。
 翌年にはガダーフィらにとってのメンター的存在であったナーセルが急死したため、後ろ盾を失うこととなった。この先の展開は、同年に先行して同種の革命を経験したスーダンとは対照的なものとなる。
 スーダンがナーセル死後に脱社会主義・親イスラエルへと転回したエジプトのサーダート政権と歩調を合わせたのに対し、リビアはガダーフィの特異な政治思想に基づく独自の社会主義体制へ進むからである。
 その移行期となったのは1973年から77年にかけての時期であったが、この間、ガダーフィは75年に著書『緑の書』を発表し、その中で、一種の直接民主主義に基づくリビア独特の社会主義の理念を打ち出した。 
 それはジャマヒリーヤ(人民共同体)というキー概念を中心とする政治経済理論で、それによると、リビアの新体制は政党や議会によらず、18歳以上の全員参加が義務付けられた基礎人民会議を通じて、人民総会議が最高機関となる会議体民主主義の政体を採るとされる。
 ガダーフィはこうしたジャマヒリーヤを土台に、資本主義でもマルクス‐レーニン主義でもない第三の道を「第三インターナショナル理論」と銘打って体制教義とした。
 ただ、その内容はユーゴスラヴィアのチトー主義や中国の毛沢東主義などが部分的に混在した混交的な「理論」であって、政治経済思想として十分練り上げられたものとは言い難かった。
 実態としては、69年革命以来、大佐に自己昇進したガダーフィを長とする自由同盟将校団メンバーが中心となった軍事政権が継続していた。この間、76年には民主化を求める学生のデモが発生しているが、ガダーフィ政権はこれを弾圧し、学生運動指導者らの処刑で臨んだ。
 その後、1977年にはガダーフィの理論に基づき、改めて「社会主義人民リビアアラブ人民共同体」なる特異な呼称の新体制が発足した。この体制は標榜上直接民主制であるから、国家元首も存在しないとされたが、ガダーフィは当初は人民総会議総書記として、その後は「革命指導者」の称号で引き続き政治指導を行っていた。
 経済的な面では、78年に公刊された『緑の書』第二巻で小売りや賃金、家賃といった搾取手段の廃止が打ち出され、代わって「パートナー」と言い換えられた労働者による自主管理や利益参加などの新機軸や、複数の住宅所有の禁止など急進的な政策が導入されていった。
 その結果、1970年代から80年代前半頃にかけてのリビアは、石油収益にも支えられて、一人当たりGDPでは一時欧州や米国をすら抜く福祉国家的な繫栄を享受するなど、ジャマヒリーヤ体制は順調な発展を見せているかに見えた。
 しかし、その陰では、直接民主制とは名ばかりの革命指導者ガダーフィによる個人崇拝的独裁政治が定着し、人民総会議などの議事が形骸化していた点では、ソ連共産党支配体制下のソヴィエト制度と同様の経緯を辿っていた。
 またガダーフィ政権は対外的には反イスラエル・反西側の姿勢を強く打ち出し、国際テロリズムを支援したため、1986年には当時のレーガン政権による空爆を受け、その報復として88年には自ら工作員を使ってパンアメリカン航空機爆破テロ事件を起こすなど、テロ実行国家とすらなった。
 このように、ジャマヒリーヤ体制はその標榜上の急進的な民主主義理論と実態との著しい乖離ということを特徴とした。それを長期にわたって可能にしたのは、リビアでは近代国家の外形の下で、実際は部族主義が生き残っており、ガダーフィ自身も属したベドウィン遊牧部族が権力基盤となっていたというリビアの前近代的な社会構成のゆえであった。
 このような奇妙な乖離現象はガダーフィの長期支配が成功している間はさしあたり隠蔽されていたが、2010年代のアラブ連続民衆革命の潮流を防ぐことはできず、リビアでも革命が勃発する中で露呈し、ガダーフィ自身を悲惨な末路に導くこととなる。

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近代革命の社会力学(連載第277回)

2021-08-10 | 〆近代革命の社会力学

三十九 アラブ連続社会主義革命

(6)リビア革命

〈6‐1〉独立から自由将校団革命まで
 今日、北アフリカはマグレブ地域の東端に位置するリビアを構成する領域は本来単一ではなく、地中海に面した東部のキレナイカ及び西北部のトリポニタニア、西南部の内陸地フェザーンの三地方が各々独自の発展史を持っていた。
 しかし、16世紀以来、北アフリカに侵出してきたオスマン帝国に順次征服された後、20世紀初頭イタリアとの戦争に敗れ、三地域を包括してイタリアに割譲させられたことにより、今日のリビアに相当する領域がイタリア領土となったことがリビアの原型である。
 そうした中で、東部のキレナイカは民族的抵抗の拠点となった。とりわけ19世紀以降、キレナイカにはアラビア半島から移転してきたイスラーム神秘主義のサヌーシー教団が定着し、多くの信者を獲得、宗教を越えた民族的抵抗の中心的存在として、イタリアに対する武装抵抗運動を続けた。
 第二次大戦中もサヌーシー教団は連合国と連携し、イタリアに抵抗したが、戦時中、キレナイカはトリポニタニアとともにイギリスが、フェザーンはフランスが占領し、両国により分割統治されることになる。そして、戦後の1949年に至り、キレナイカはサヌーシー教団教主ムハンマド・イドリスを首長として独立が認められた。
 さらに49年中には、国際連合総会がリビア全体の統一国家としての独立を求める決議を採択したことで、1951年の独立に際しては、上述の三地方が合同してリビア連合王国が建国され、キレナイカのイドリス首長が改めてイドリス1世として初代国王に即位した。
 新生リビア連合王国は合同した三地方が各々広範な自治権を持ち、かつ連邦首都もキレナイカの首府ベンガジほか三か所に置かれるという不安定な複都連邦制であった。外交上は、中東地域の保守的な君主制諸国の趨勢に従い親西側路線を採った。
 そうした中、1959年にキレナイカで油田が発見され、採掘が開始されて以降、リビアはとみにオイルマネーで潤うようになるが、石油利権は西側石油資本と結託した王族など一部少数の支配層に集中し、三地方の対立も激化するようになる。
 これに対し、イドリス国王は1963年に連邦制を廃して統合的な王国に改編することで対立を抑止し、安定を確保しようとするも、これは逆効果であった。折しも、エジプト革命以降、汎アラブ民族主義は隣国リビアにも容易に浸透しており、反王制の機運が高まっていた。
 そうした中、リビア国軍内ではアラブ民族主義に目覚めた青年将校の間で、エジプトの自由将校団にならった自由同盟将校団が結成され、革命的な秘密活動を始めていた。
 その結果、イドリス国王がトルコ滞在中の1969年9月、27歳のムアンマル・ガダーフィ大尉[日本では「カダフィ」と表記することが慣例であるが、本稿では現地のアラビア語リビア方言の発音に近い表記を採用する]に率いられた将校団が決起した。
 これは形の上ではクーデターであったが、成功後、革命指令評議会が設置され、君主制廃止と共和制移行が宣言されたため、先行のエジプトやイラク、北イエメンにおけるのと同様の共和革命に進展した。
 この1969年リビア共和革命は20代主体の下級青年将校のみで電撃的かつほぼ無血で実行された点で、アラブ連続革命の中でも異彩を放つ事象であり、それだけ当時のリビア王国の基盤が脆弱であったことの証左でもあるだろう。

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ブログ開設10周年

2021-08-10 | 時評

当ブログも開設から今日で丸10年を迎える。開始した10年前は、東日本大震災とそれに起因する福島原子力発電所事故の衝撃が冷めやらない時であった。それに直接触発されたわけではなかったが、誰から頼まれたわけでもないのに、自身の内部から何かに突き動かされるように、主軸となる『共産論』をはじめとして、それ以前の数年間に書き溜めていたいくつかの草稿をブログ化し始めたのであった。

以来10年、この間、世界情勢や国内事情も、また筆者の個人的な状況も大きく変化した。しかし、変化しないのは、当ブログの執筆方針である。

その一つは、未来を見据えつつ、過去と現在を自在に飛び回る時空を超えた思考を辿ることである。通常、そのような時空超越はフィクションとしての小説の世界の話であるが、それをあえて論説・論文の形で実践してきた。例えば、主軸の『共産論』は明白に未来時制であるが、現在連載中の『近代革命の社会力学』は過去時制であり、不定期の時評は文字通り、現在時制である。

結果として、雑誌的というより様々なテーマで書き散らす雑記帳的ブログとなってしまった観もあるが、主軸は未来時制にある。というのも、現在という時制は厳密には存在しないからである。現在は、まさに今この瞬間に過去のものとして過ぎ去り、続々と未来が到来しているのである。

もう一つは、筆者の氏名はもちろん、プロフィールも公表しない匿名性を貫くことである。元来インターネットは匿名性を旨とするものではあるが、多くの人が実名や、少なくともプロフィールは公表して発信している中、個人にまつわる情報を一切非開示として発信を続けることは、信頼性という点で大きな制約を受けるだろう。

しかし、そうした制約を甘受しても、匿名性を貫くことにより、名前や経歴による先入見にとらわれない読み方をされることの意義を選択したのである。もっとも、当初は性別だけは公表していたのだが、筆者の性別も公表すれば、大なり小なりジェンダーバイアスにとらわれた読まれ方を避けられないので、現在は性別も非表示としている。

三つ目は、他文献の引用・参照を原則としてしないことである。もっとも、かつては乱読者として様々なジャンルの本を読み漁っていた時期があり、そうした本からの無意識的な影響により血肉化された要素が混ざり込んでいることを否定はしないから、全く純然たるオリジナリティーを主張するつもりはない。

とはいえ、当ブログは一般的な教科書・参考書類にはまず載ることがないようなアイデアの宝庫であると密かに自負している。そのうえ、筆者自身は法的著作権を放棄しているので、当ブログ内の「宝」はどなたも自由に無断でお使いいただけるのである。(ただし、骨抜きにしたり、歪曲したりすることなく、そのままの形でお使いいただくことを希望はしている。)

四つ目は、読者におもねらないことである。とかくアクセス数なる指標が幅を利かせるインターネット世界では、伝統的な紙書籍の世界以上に、あの手この手で読者の気を引こうとする刺激的な言説が溢れているが、当ブログはそうした趨勢には背を向け、いわゆるSNSとの連携も避け、テーマ的にも論調的にも一般読者の関心を引きそうにない発信を細々と続けてきた。

結果として、当ブログは本線に連絡していないローカル線の秘境駅のようなブログとなっているが、そのわりには、―あくまでも10年間の累計とはいえ―当初の想定を超えた存外に多くのアクセスをいただいてきたように思える。これには素直に感謝すべきかもしれないが、当ブログはたくさんのアクセスを受けることより、筆者自身の思考の足跡を残すということに最大の目的を置いているので、アクセスに対して感謝するという常識的礼儀も脇に置かざるを得ないのである。

五つ目は、出来得る限りで正統的な日本語による文章体を確立することである。その点、インターネット世界は本質的に書き言葉の世界でありながら、文法的に型崩れした口語体(しばしば絵文字も)が混ざった独特の文体が幅を利かせている。そのことを非難するつもりはなく、そうした文体がふさわしい場(サイト)もあるのだろうが、当ブログでは可能な限り正統的な日本語による、―しかし古風な文語体の復活ではなく―現代にふさわしい文章体の創出を心がけてきたつもりである。

結果として、当ブログの文章は生硬で、近年のインターネット文体に慣れ親しんでいる向きには読みづらく、取っつきにくいものとなっているやもしれず、そのこともアクセスを制約しているであろうが、この点でも、アクセス獲得ということに重きを置かない当ブログにおいては重要な問題とはならない。

さて、次の10年が来れば20周年であるが、おそらく2031年に20周年を画する時評は載らないだろう。実際のところ、主軸の『共産論』とその周辺問題に係る連載がおおむね終了している現在、当ブログは実質的な役割を終えているからである。現在継続中の連載が順次完了すれば、当ブログはほぼ寿命を迎える。ただし、筆者が目下のパンデミックを何とか切り抜け、生き延びることができればの話である。

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南アフリカ憲法照覧[補訂版](連載第20回)

2021-08-08 | 南アフリカ憲法照覧

国民議会の権限

第55条

1 立法権を行使するに当たり、国民議会は‐

(a)議会に上程されたいかなる法律をも審議し、可決し、修正し、または否決することができる。

(b)立法を開始し、または準備することができる。ただし、財政法案についてはこの限りでない。

2 国民議会は、以下のような目的を持つ仕組みを定めなければならない。

(a)国の領域のあらゆる行政機関が議会に責任を負うよう保証すること。

(b)次のものへの監督を維持すること。

 (ⅰ) 法律の適用を含む国の行政権の行使

 (ⅱ) あらゆる国家機関

 本条から第59条までは国民議会の権限や議員特権等に関する細則である。本条では、立法と監督という国民議会の二大権限の内容が簡潔にまとめられている。なお、財政法案に限っては、財政担当閣僚が発議する例外がある(第77条)。

国民議会に提出される証拠または情報

第56条

国民議会またはそのいかなる委員会も‐

(a)宣誓もしくは誓約に基づき証言し、または文書を提出するため、あらゆる人を召喚することができる。

(b)あらゆる個人または組織に対して議会への報告を求めることができる。

(c)国の法律もしくは規則及び命令の定めるところにより、あらゆる個人もしくは組織に対して、a号もしくはb号に定める召喚または要求に応じるよう強制することができる。

(d)利害関係を持つあらゆる個人もしくは組織から請願、説明または上申を受けることができる。

 本条は日本の国政調査権に相当する国民議会の権限を定めている。前条の権限、とりわけ監督権を行使するための補助的な権限である。

国民議会の内部的協議、議事及び手続き

第57条

1 国民議会は‐

(a)内部的な協議、議事及び手続きを決定し、統制することができる。

(b)代議的かつ参加的民主主義、説明責任、透明性及び公衆関与に適正な配慮をしつつ、その任務に関する規則及び命令を作成することできる。

2 国民議会の規則及び命令は以下のことを定めなければならない。

(a)委員会の設立、構成、権限、機能、手続き及び存続期間

(b)議会の少数政党が議会及び委員会の議事に民主主義にかなった方法でする参加

(c)議会に議席を持つ各党及びその党首が議会でその役割を有効に果たせるようにするための議席割合に応じた財政的及び事務的支援

(d)議会における最大野党党首の野党首班としての認知

 本条は国民議会の内部的諸事項を定める規則の内容を列挙している。いわゆる自律権の規定である。注目されるのは、大衆参加や少数政党の参加に関しても配慮が要求されていることである。これは現状、旧反アパルトヘイト運動体の与党アフリカ民族会議(ANC)の圧倒的な優位が揺らがない中で、一党独裁化を避けるためには鍵となる規定であろう。なお、最大野党党首を野党首班(the Leader of the Opposition)として公式に遇するのは、英国議会制度からの影響と思われる。

特権

第58条

1 閣僚、副大臣及び国民議会議員は‐

(a)議会及び委員会において、その規則及び命令に従い、言論の自由を有する。

(b)次のことを理由に、民事もしくは刑事の起訴、逮捕、投獄または損害賠償の責任を負わない。

 (ⅰ) 議会もしくはそのあらゆる委員会において発言し、提示し、または上申し 
     た事柄

 (ⅱ) 議会もしくはそのあらゆる委員会において発言し、提示し、または上申し
     た事柄の結果として明らかにされた事柄

[第1項は2001年法律第34号第4条により修正]

2 その他の国民議会、閣僚及び議員の特権並びに免責事項は、国の法律によって定めることができる。

3 国民議会議員に支払われる報酬、手当及び給付は、国庫基金の直接負担である。

 本条は、国民議会議員や議会に出席する閣僚、副大臣らの特権に関する規定である。南アは大統領制のため、閣僚や副大臣は議員ではないが、議会に出席する限りで議員に準じた特権を有する。第1項b号ⅱで、言論の免責範囲が結果的な判明事項まで及ぶのは手厚い保障である。

国民議会への公衆のアクセス及び関与

【第59条】

1 国民議会は‐

(a)議会と委員会の立法及びその他の手続きへの公衆の関与を促進しなければならない。

(b)その任務を開かれた方法で行い、かつ議会及び委員会の議事を公開しなければならない。ただし、次の目的のために合理的な措置を取ることができる。

 (ⅰ) メディアの取材を含む公衆の議会及び委員会へのアクセスを規制するこ
     と。

 (ⅱ) 特定の人を捜索し、及び適切な場合は特定の人の入場を禁止し、または強  
     制退場させること。

2 国民議会は、開かれた民主社会において合理性及び正当性が認められない限り、メディアを含む公衆を委員会の議事から排除しない。

 本条は議会への公衆関与に関する先進的な規定である。議会は、要件がやや不明確ながら(特にメディアの取材等を規制するb号のⅰ)、一定の規制権限を保持しながらも、立法やその他の議会手続きへの公衆関与を義務付けられている。特に第2項で委員会議事も原則的に公開されるのは徹底している。

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南アフリカ憲法照覧[補訂版](連載第19回)

2021-08-08 | 南アフリカ憲法照覧

会期及び休会

第51条

1 選挙の後、国民議会の最初の会期は、選挙結果が公表されてから14日を越えない範囲で首席裁判官によって決定された期日及び時間に開かれなければならない。国民議会は、他の会期及び休会の時期及び期間を定めることができる。

[第1項は2001年法律第34号第1条により修正]

2 大統領は、特別の任務を行なうため、いつでも国民議会の臨時会を召集することができる。

3 国民議会は、公益、治安及び便宜を理由としてのみ、かつ議会の規則及び命令で定められている限り、議会の所在地以外の場所で開くことが許される。

議長及び副議長

【第52条】

1 選挙後の最初の会期で、または必要に応じて空席を補充するため、国民議会はその議員の中から各1名の議長及び副議長を選挙しなければならない。

2 首席裁判官は議長の選挙を主宰し、または他の裁判官にそれを指示しなければならない。議長は副議長の選挙を主宰する。

[第2項は2001年法律第34号第2条により修正]

3 附則第3条A部に掲げられた手続きは、議長及び副議長の選挙に適用される。

4 国民議会は、決議により議長及び副議長を解任することができる。その決議が採択されるには、総議員の過半数の出席を要する。

5 その規則及び命令の定めるところにより、国民議会はその議員の中から議長及び副議長を補佐する他の役員を選挙することができる。

議決

【第53条】

1 この憲法が別に定めている場合を除き‐

(a)法案または修正法案に投票される際には、国民議会の議員の過半数が出席しなければならない。

(b)議会におけるその他の議案に投票される際には、少なくとも議員の3分の1が出席しなければならない。

(c)議会におけるすべての議案は、多数決による。

2 議会の会議を主宰している国民議会議員は、投票権を持たない。ただし‐

(a)議案に対する可否が同数の場合は、決裁票を投じなければならない。

(b)議案が議員の3分の2以上の賛成票によって議決されなければならない場合は、投票しなければならない。

国民議会における一定の閣僚及び副大臣の権利

【第五四条】

大統領及び国民議会議員でないいかなる閣僚または副大臣も、議会の規則及び命令に従い、国民議会に出席し、発言することができる。ただし、投票することはできない。

[本条は2001年法律第34号第3条により修正]

 第51条から第54条までは、国民議会の会期や議長以下の役員の選挙、議決方法や大統領・閣僚の出席権等の細目が簡潔に定められている。選挙後最初の会期の決定や議長選挙の主宰を憲法裁判所長官でもある首席裁判官に委ねる点が特色である。

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ウイルス起源問題の政治化

2021-08-07 | 時評

5日、米諜報機関が新型コロナウイルスをめぐり、かねてより流出説が囁かれてきた中国・武漢のウイルス研究所が扱っていたウイルスのサンプルの遺伝子情報を含む膨大なデータを入手したとCNNが報じたことで、ウイルス起源問題が再燃し、かつ政治化される危険が高まってきた。

この動きは、バイデン米大統領が5月にウイルスの起源に関して90日以内に調査し、報告するよう諜報機関に対して命じていたことに対応するものとされるが、そもそもウイルスの起源という科学的な問題の調査を諜報機関に託すということが問題の政治化を意味していた。

諜報機関は、国益のために都合の良い情報工作をすることを活動目的としている機関である。アメリカは現時点でも、累計感染者数・死者数いずれも堂々の世界トップにあるから、諜報機関の工作によりウイルスの研究所流出説を打ち出すことができれば、アメリカは中国の最大の「被害国」だったということになり、中国に対して優位に立てると打算されているのだろう。

とりわけ、以前から陰謀説として取り沙汰されてきた生物兵器説を打ち出せれば、戦争に持ち込むことさえ可能になる。もっとも、ウイルス自体が人工的に製造された生物兵器だったとする説はいささか荒唐無稽であるが、生物兵器用に採取あるいは人工合成していたウイルスの取り扱い上のミスによって流出したとする説なら、ある程度の信憑性を持たせることが可能である。

そうなると、ちょうど2003年に当時のイラク政権が大量破壊兵器を秘密保持しているとの情報操作により戦争を発動したのと同様の仕掛けで、対中戦争を発動するか、少なくとも米中冷戦のような局面を作り出すことは可能になるだろう。

あるいは生物兵器説は無理筋としても、純粋の科学的研究目的ではあったが、やはり取り扱い上のミスにより流出したとする説であれば、より説得性を持たせることができる。この線で行った場合も、アメリカは中国の過失による最大の被害国であったことになるから、やはり中国に対して優位に立つことができるだろう。

いずれにせよ、こうしたバイデン政権によるウイルス起源問題の政治化の動きは、かつてCOVID-19を「中国ウイルス」と指称し、自国の無策・失策を中国に転訛する戦術を取ったトランプ前大統領を猛批判して当選したバイデン大統領が、実はトランプ政権の戦術をこっそり継承していることを示唆するものである。

これに対して、純粋に科学的な観点からのウイルス起源問題の探求は無価値ではない。とはいえ、目下のパンデミックを収束させるうえで、起源問題は役に立たない。将来のパンデミックの再発防止のためなら役立つという意義はあるが、そのためには中立的な多国籍構成の科学者団による徹底した科学調査を要し、中国側の全面協力も欠かせない。

現状それが望めないため、米諜報機関はおそらく何らかの超法規的手法を用いて研究所の内部資料・データ等を入手したのであろうが、それならば、結論を出す前に、取得した情報は世界の幅広い研究者にも開示するなどして、科学的な観点からの検証を経るべきだろう。90日というような形式的期限も無用である。

その解析結果いかんでは、目下のパンデミックの性格が一変する爆弾情報である。目下、パンデミックは自然現象という前提でとらえられているからである。研究所流出となれば、人為的な惨事だったことになり、一気に国際的な政治問題化し、戦争的な局面をさえ迎えることもあり得るだけに、慎重さが求められる。

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近代革命の社会力学(連載第276回)

2021-08-06 | 〆近代革命の社会力学

三十九 アラブ連続社会主義革命

(5)スーダン革命

〈5‐2〉自由将校団革命から反革命的転回まで
 1964年民衆革命は特定の革命政党や革命的組織によって実行されたものではなく、自然発生性が強かったがゆえに、革命後、退陣した軍事政権に代わる安定的な体制を構築することができなかった。
 軍事政権時代には抑圧されていた政党政治が復活し、独立運動にも尽力したウンマ党が軸となったが、安定的な与党とはならず、政権の中心となる首相は1969年までに四人を数えた。建国以来の南スーダン問題も、未解決であった。
 そうした中で、軍部内に育っていた左派系将校グループが自由将校団を結成し、1969年5月、クーデターに成功した。ガアファル・ヌメイリ大佐に率いられた自由将校団内部では当初クーデターに反対する声が強かったが、ヌメイリが主導して決行を早めたとされる。
 自由将校団主導という点では、エジプトの1952年共和革命に範を取ったものではあったが、スーダンはエジプトと異なり、建国以来共和制であったので、69年5月の政変は革命よりクーデターの性格が濃厚ではあった。
 しかし、自由将校団は政権掌握後、国家革命指令評議会を設立し、社会主義に大きく傾斜していくため、社会主義革命の性格が前面に表れることになった。
 ヌメイリは1971年に形だけの国民投票で大統領に就任すると、唯一の合法政党としてスーダン社会主義者同盟を結党し、社会主義体制を明確にしたうえ、銀行その他の産業の国有化や土地改革に取り組んだ。
 この初期の施策は自由将校団にも浸透していたスーダン共産党の影響と協力も受けており、共産党の発言力が増していた。しかし、共産党内の親ソ派と民族派の対立から、前者が71年に軍内の共産党細胞と連携して大規模なクーデターを起こすと、ヌメイリはこれを辛くも鎮圧、共産党を弾圧して幹部党員を処刑した。
 この共産党によるクーデター未遂事件は社会主義政策にも修正的な変容をもたらすとともに、外交面でもソ連からの離反と(当時ソ連と対立していた)中国や西側への接近という転回をもたらすことになった。
 一方で、72年には帝政エチオピアの仲介により、55年以来継続していた南スーダンとの紛争(第一次スーダン内戦)をアディスアベバ合意により解決し、懸案であった南スーダン問題をひとまず解決するなど、初期のヌメイリ政権はスーダンに一定の安定をもたらすことに成功した。
 とはいえ、69年革命はアラブ社会主義革命の潮流の中では、67年の第三次中東戦争にエジプトが敗北し、ナーセルの威信が落ちた後の事象であり、70年にはナーセルも急死したため、アラブ社会主義の大義は70年代以降急速に失われていった。
 そうした国際力学の変化の中で、長期執権を狙うヌメイリはイスラエルと和解したエジプトのサーダート政権を支持する一方、80年代に入ると、一転して社会主義からイスラーム主義に大転回し、イスラーム法体系シャリーア法の導入など保守的回帰を示した。
 このように、革命指導者自らが明確な反革命反動に出るのは稀有のことではあるが、その背景として、元来69年革命は一部の宗教保守派の支持も得ていたこと、76年の宗教保守派によるクーデター未遂事件後、イスラーム勢力との政治的和解プロセスを進めていたことがある。
 しかし、より直接的には盟友だったエジプトのサーダート大統領が1981年、イスラーム原理主義者によって暗殺されたことがあると考えられる。当時、スーダンでもムスリム同胞団のようなイスラーム勢力が台頭していたことも、ヌメイリ自身の政治的延命策としてのこうした変節を後押したであろう。
 だが、この大転回はアディスアベバ合意の破棄を意味し、非イスラーム教地域である南スーダンを憤激させ、再び南北紛争(第二次スーダン内戦)を招くという致命的な失政につながった。ヌメイリが政治生命の延命のためにした大転回が、政治生命を短縮する皮肉な結果となったのである。
 1985年に援助国アメリカや国際通貨基金(IMF)の圧力を受けた緊縮政策が物価高騰を招くと、ストライキや抗議活動が隆起する中、ヌメイリは権力基盤である軍部に見放される形でクーデターにより失権、エジプトへの亡命を強いられることになった。

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近代革命の社会力学(連載第275回)

2021-08-05 | 〆近代革命の社会力学

三十九 アラブ連続社会主義革命

(5)スーダン革命

〈5‐1〉独立から1964年民衆革命へ
 エジプト南部で隣接するスーダンは、19世紀エジプトに成立したムハンマド・アリー朝による征服を受けてエジプト領となるが、そのムハンマド・アリー朝がイギリスの支配下に置かれると、イギリス・エジプトの二重支配下に編入されるという数奇な経過をたどった。
 この間、19世紀末にはイスラーム救世主マフディを称するムハンマド・アフマドが武装蜂起し、イスラーム国家(マフディ国家)を樹立した(拙稿)。これもある種の地方革命のような事象ではあったが、マフディ国家は基本的に反近代的な祭政一致体制であり、近代的な意味での革命とはみなせない事象であった。
 マフディ国家がイギリス軍の掃討作戦によって粉砕されると、1899年以降、スーダンは改めてイギリス・エジプトの支配下に編入され、エジプトと一体的なイギリスの勢力圏となる。その後、20世紀における独立運動はアラブ系住民の多い北部を中心に隆起し、穏健イスラーム主義政党のウンマ党がその中核を担ったのは、エジプトとの相違点である。
 そのウンマ党の指導部が上述のマフディ国家樹立者ムハンマド・アフマドの子孫たちによって担われたことは偶然ではなく、スーダンではマフディ国家が敗北した後も、マフディ運動の余波が近代的に姿を変えて長期的に持続していたことを意味する。
 そうした中、1952年のエジプト共和革命は必然的にスーダンにも波及し、エジプト革命政府がスーダンの領有権を放棄したことで、イギリスからの独立の機運が高まった。ウンマ党は基本的に穏健主義であり、武装革命ではなく、交渉を通じて独立を勝ち取り、1956年にスーダン共和国が発足した。
 しかし、スーダンはアラブ系優勢の北部と黒人諸部族が割拠する南部の対立が激しく、独立直前の55年には早くも南北間の武力衝突が発生するなど統一が困難で、共和制といっても単独の大統領は選出できず、主権評議会による合議制で発足した。
 こうした不安定状況を打開するべく、1958年にイブラヒム・アブード国軍最高司令官がクーデターを起こして政権を掌握、軍事政権を樹立した。アブードは自ら初代大統領に就任し、南スーダン問題を最大の課題として、軍主導で改めて国作りに着手するが、その強権主義的手法は多くの反発を呼び、課題の解決には程遠かった。
 政権が弾圧を強め、長期執権の兆しが見えた1964年10月、首都のハルツーム大学での反政府的なセミナーに乱入した警察が学生や労働者3人を射殺したことを契機に抗議行動が広がり、やがては全土的な市民的不服従とゼネストに発展した。
 反体制派は一部の軍将校とも連携し統一国民戦線を結成してアブード政権と対峙した結果、アブード大統領はついに辞任に追い込まれ、6年に及んだ軍事政権が解散、暫定文民政権が発足したのである。
 この1964年の革命は大学での小さな弾圧事件を導火線として、武器を持たない学生と労働者が蜂起したもので、2010年代におけるアラブ連続民衆革命の遠い先取りとも言える非暴力の民衆革命であった。軍事政権崩壊後の暫定政権も社会主義的ではなく、64年革命自体はアラブ連続社会主義革命の潮流とは別個に生じた事象と言える。
 しかし、アブード軍事政権時代を通じて軍部が政治化を来しており、中堅・若手将校を中心にナセリストや共産党と連携する者も育っていた。かれらは、エジプトにならった自由将校団運動を結成する。
 失敗に終わったものの、1966年に共産主義者の将校グループがクーデター決起したことは、64年民衆革命後の文民政権の不安定さと機能不全の中で、将校主導での革命の小さな芽が発現したものと言えたであろうが、文民政権はそれを摘み取る力能を持たなかった。

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近代革命の社会力学(連載第274回)

2021-08-03 | 〆近代革命の社会力学

三十九 アラブ連続社会主義革命

(4)南北イエメン革命

〈4‐6〉南イエメン一党支配体制への進展
  南イエメンにおける独立革命/戦争は、宗主国イギリスとの武力紛争であるとともに、それ自体が民族解放戦線(NLF)と南イエメン占領地解放戦線(FLOSY)という競合する二系統の独立運動体同士の内戦をも兼ねていたことを特徴とする。
 その点で、同様の名称を持つアルジェリアの民族解放戦線が統一戦線として高度に組織化されていたのとは大きく異なった。これは、南イエメンの民族解放戦線がマルクス主義者主導で結成されたことでビッグテント型の組織に成長せず、マルクス主義に同調しないグループが別組織を結成したという事情による。
 とはいえ、独立革命はNLFが先行開始し、戦争の期間中も武力闘争の主力として戦闘を展開したことに変わりなく、独立貢献度に関してはNLFが一歩先を行っていたことも否めない。一方、エジプトの支援を受けていたFLOSYは、エジプトが第三次中東戦争に敗北した後は支援を失い、勢力を弱めた。
 NLFは独立戦争終盤で南イエメン連邦軍と連携し、独立宣言前にFLOSYを打ち破ることに成功した。こうして、1967年11月の独立宣言時にはNLFがほぼ唯一の支配勢力となっており、イギリスもNLFに権力を移譲することに合意した。
 そうした経緯から、新たに成立したイエメン人民共和国はNLFによる一党支配体制として始まり、その後の展開は同組織内での権力闘争のプロセスとなる。そのプロセスは、マルクス‐レーニン主義を教義をする一党支配体制の確立の過程でもあった。
 その間、二度の党内クーデターがあり、69年にはNLF内ナセリスト派の初代大統領カフタン・ムハンマド・アル‐シャアビが追放され、代わって権力を掌握しイエメン人民民主共和国への国名変更を主導したマルクス主義派のサリム・ルバイ・アリも78年の党内クーデターで失権・粛清された。
 このクーデターは、マルクス主義穏健派で北イエメンとの統一に前向き、かつ新たな独裁政党の創設に反対していたルバイ・アリが、反対派によって排除されたものであった。
 この政変の後、NLFを母体とする新政党・イエメン社会主義者党(社会党)の一党独裁体制が確立される。この党は共産党こそ名乗らなかったが、ソ連共産党をモデルとした他名称共産党の一種であり、こうしたソ連型一党支配体制としてはアラブ世界で唯一のケースとなった。実際、南イエメンはソ連のアラブ世界における衛星国家となり、首都アデンにはソ連の海軍基地が設置された。
 その他、計画経済や秘密警察網による社会統制など、基本的内政事項もソ連や東ドイツなど同盟国からの技術支援に依存する体制であったが、70年代には生産力の向上を経験し、アラブ世界でも有数の女性の権利の尊重や世俗教育の普及などが達成され、脱イスラ―ム化された世俗国家として発展を遂げるかに見えた。
 しかし、イエメンでは油田が南北イエメンの境界線にまたがる形で潜在しており、南北分裂状態では油田開発が進展せず、経済的な持続成長は見られなかった。
 加えて、社会党内では北イエメンとの統一問題やマルクス‐レーニン主義路線の修正をめぐり推進派と反対派の派閥闘争が根深く、ついに80年半ばには両派間の内戦に発展、ソ連の仲介で鎮圧されたものの、10日余りの戦闘ながら1万人近い犠牲者と多くの難民を出し、体制は大きく損傷された。
 最終的には1990年、安定的な支配体制を築いていた北イエメンのサーレハ政権の主導により、北イエメンに吸収合併される形で南北統一が成り、南イエメン独自の体制は消滅したが、完全な統合は進まず、そのことが民主化革命後、現在進行中の長期内戦の遠因ともなる。

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近代革命の社会力学(連載第273回)

2021-08-02 | 〆近代革命の社会力学

三十九 アラブ連続社会主義革命

(4)南北イエメン革命

〈4‐5〉南イエメン独立革命
 以前見たように、南イエメンは中心的な港湾都市アデン植民地とその周辺のイスラーム系小首長国を束ねるアデン保護領から成る二面構造のイギリス領であったところ、イギリスによる事実上の間接支配状態を排除した1952年エジプト革命の余波は南イエメンにも波及し、ナショナリズムを鼓舞した。
 南イエメンでは、ほぼ唯一産業化が進展していたアデンに結成されたアデン労働組合会議(ATUC)が労働運動と結びつく形でナショナリズムを喚起したことが特徴である。イギリスはこれに対抗するべく、1962年にアデン保護領を改めて南アラビア連邦に改編し、アデン植民地もアデン国に改称したうえで、これに加えた。
 こうしたイギリスの植民地体制強化の動きに対し、マルクス‐レーニン主義を奉じるグループが中心となって民族解放戦線(NLF)を結成し、独立革命運動を開始したことは、マルクス主義の勢力が弱かった他のアラブ諸国との大きな差異であり、革命後の展開の相違にも影響したであろう。
 他方、NLFの路線に批判的なATUC系のアラブ民族主義者は南イエメン占領地解放戦線(FLOSY)を結成し、NLFに対抗した。そのため、独立革命はこの両組織が競合しつつも部分的に協調しながら展開されていくことになり、イギリスは同時に二つの武装組織を相手とする苦戦を強いられることになった。
 独立革命は1963年、イギリス人の高官に対するNLFのテロ攻撃を契機に開始された。これに対し、イギリス政府はアデンに非常事態宣言を発したため、この先、67年の独立までの武力紛争はイギリス側の視点に立って「アデン非常事態」とも呼ばれるが、実態としては南イエメン独立革命/戦争であった。
 四年近くに及んだ戦争にはいくつかの局面があったが、緒戦では戦力に勝るイギリスが優位にあった。それが大きく転換するのは、1967年1月‐2月の大規模なアデン街頭デモであった。当初はNLFが組織した民衆デモ行動であったが、これがイギリス軍によって鎮圧されると、引き続いてFLOSYも支持者のデモを組織したため、大規模な騒乱に発展した。
 このように民衆の抗議行動を組織し、下からの力作用を作り出すことに成功した独立勢力の戦略は功を奏し、これ以上の市民の流血を避けたいイギリスは南イエメンからの撤退を予定より早めることとなった。
 67年6月にイギリスの指揮下にある南アラビア連邦のアラブ人警察官らが反旗を翻し、武装蜂起したことは連邦が内部からも崩壊しつつあることを示していた。これを契機にイギリスは撤退を開始、同年11月末までに完了した。その結果、同月末日に南イエメン人民共和国の建国が宣言され、独立が成ったのである。
 なお、南北両イエメンの革命は直接に連動していなかったが、北イエメンにもマルクス‐レーニン主義を奉じる複数の政党が1968年以降に結成され、南イエメンのNLFと連携して北イエメンでの革命を目指したが、成果は上がらず、70年代末に南イエメンの支配政党・イエメン社会主義者党に合併された。

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比較:影の警察国家(連載第44回)

2021-08-01 | 〆比較:影の警察国家

Ⅲ フランス―中央集権型警察国家

1‐2‐2:国家治安軍の分遣任務

 国家治安軍は陸海空の他軍種や軍務省、外務省等に派遣されて活動する各種分遣任務も持っており、その超域的な活動範囲から見れば、国家警察を越える超権力体と言える。分遣任務は武装警察、地方警察に加えた国家治安軍の三つ目の顔である。
 こうした分遣任務の一つとして、陸海空軍の内部犯罪の取り締まりに当たる憲兵隊としての任務がある。この限りで国家治安軍は諸国の憲兵隊の任務と重なるため、「国家憲兵隊」という定訳もあながち誤りとは言えないのであるが、こうした憲兵隊任務は国家治安軍の多岐にわたる任務の一部でしかない。
 狭義の憲兵隊任務を含めた国家治安軍の分遣任務は数多いため、ここでは対内的な分遣任務と対外的な分遣任務とに大別しつつ、見ていく。
 まず対内的分遣任務の中で要員数も多いのが、海上治安軍(Gendarmerie maritime)である。これは海軍の指揮下で運用され、諸国の沿岸警備隊(日本では海上保安庁)及び水上警察としての任務と海軍憲兵隊としての任務を併せ持つ分遣隊である。
 海上治安軍の類例として、空軍指揮下で運用される航空治安軍(Gendarmerie de l'air)があり、これは空軍憲兵隊としての任務とともに空軍基地の警備任務も担う。
 航空治安軍と区別される類似任務として、航空運輸治安軍(Gendarmerie des transports aériens)がある。航空運輸治安軍は国家治安軍と生態遷移省に属する民間航空総局の共管下に民間空港での警察任務を中心に担う空港警察である。
 また軍事装備治安軍(Gendarmerie de l'Armement)は軍事装備総局の指揮下で、同局関連施設の警備と軍事装備に係る犯罪捜査を担当する。ただし、核兵器に関しては別途、軍務省の指揮下で核兵器の警備を担当する核装備安全治安軍(Gendarmerie de la sécurité des armements nucléaires)が展開する。
 以上の対内的任務に対して、海外派遣任務は海外治安軍司令部(Commandement de la gendarmerie outre-mer)が担当する。これは海外県や海外領土における警察業務や海外派遣部隊の指揮に当たるほか、外務省指揮下で在外公館の警備任務も担当する海外任務専門の司令機関である。

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