旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

カラコルムのいわゆる「亀石」~正式には「勅賜興元閣碑」

2024-09-19 06:49:20 | モンゴル
草原に残された巨大な「亀石」
モンゴル帝国の遺構で地上に残る唯一のものではないかしらん。

↑こちらは2010年に開館した「カラコルム博物館」の入り口にあるレプリカ
↑もとは背中に↑石碑が載せられていた。

↑なぜ、碑文の中に変形の区切りがあるのか?↓
松川節さんの論文図より引用

↑博物館を見学して↓これらが石片が発見された部分だと知った↓
↓博物館内に展示してある石片もあるが↓


↑エルデニゾー仏塔の礎石に組み込まれてとりだせないでいる石片は拓本をとって検証が続けられている。
表面に刻まれているのはモンゴル語↑
※2009年の発掘に携わった松川節さんの論文にリンクします

詳しいビデオ解説が博物館で見られる。

裏面の↓漢字で書かれていた部分も見つかっている↓

許有壬の漢文が原文で、モンゴル語は設置された当時14世紀に翻訳して刻んだもの。
厳密な翻訳にはなっていないと検証されている。

碑が建てられたのはチンギス・ハーンの生きた13世紀からは百年以上後。
↓内容の一部↓
「太祖(チンギス・ハーン時代の元号)15年、チンギス・ハーンはカラコルムをモンゴル帝国の首都と定めた。ウゲデイ(=オゴデイ)・ハーンはそこに宮殿を、モンケ・ハーンは壮麗な仏教寺院(興元閣)を建てた。それはトゴンテムル・ハーンが再建した」※博物館の日本語解説より
北京を首都にしていた「元」の皇帝・恵宗帝(明朝により後に順帝と呼ばれるようになる)(=モンゴル語での名前はトゴンテルム)が、カラコルムにある興元閣を1347年に大規模修繕工事をした際に立てた碑だということ。
↓こんなふうに↓復元図

↑手前に小さく描かれた「亀石」が見える↓

↑写真左の壺は2014年に寺の敷地四つの角から発掘された↓
「容器の中には九つの宝(金、銀、真珠、トルコ石、瑠璃、絹、鍍金した木器、茶葉、穀物、粒食など)を入れて蓋がされていました。こういったものはそれ以前にモンゴルでは発見されていません。「勅賜興元閣碑」で言及された仏教寺院の存在を実証しています」※カラコルム博物館の日本語解説より(日本語が不自然なところを修正しています)

仏教寺院「興元閣」はカラコルムの城壁内、南門を入った近くにあったとされる
↓博物館の復元模型↓

↑遠くに見える塔は高さ90mあったと推察されている。
↑左手の四角い敷地に建つ本堂の四隅に四つの甕が埋められていた?
↑「亀石」もあった?
いや、この復元模型はモンケ・ハーン時代(1251-1259)を再現しているということだから、
1347年にトゴン・テムル帝が修復して「亀石」を立てる九十年ほど前の姿だ。
「興元閣」自体はあったが、まだ「亀石」はない。
現在「興元閣」は礎石だけが復元されている↓

↓このジオラマは2005-2006年にカラコルム一帯を発掘調査したドイツ・モンゴルの成果に基づき製作された。

カラコルムの町を南北に貫通するシルクロード↑

★カラコルムとはどういう場所か
前出の松川さんの研究論文から要約
1220年58才のチンギス・ハーンがこの場所を首都にすると決定。兵站基地だけ築かれる。
1235年チンギスの三男・2代代皇帝のオゴデイ(ウグダイともウゴデイとも)が、都市建設。
シルクロードの要衝として繁栄。
当時は世界一の人口を誇ったとも伝わる。
※博物館の解説より↓
「1.6㎢の首都の人口は一万から一万五千人だったと考えられています。彼らの国籍は多岐にわたり、契丹、中国、チベット、ウィグル、ペルシア、インド、さらにヨーロッパで捕虜となったフランス、ドイツ、ハンガリー、ロシアの人々などが含まれていました。1254年カラコルムに数か月滞在したフランス人修道士ギョーム・ルブルクの記録によると町は土壁で囲まれており、地区ごとに様々な民族や職業の建物が配されていました。キリスト教ネストリウス派の教会もひとつあったそうです。人々の信仰の自由は尊重されていました。北東にはイスラム教徒が住む地区がありモスクがありました。中国北方の契丹人は町の中央地区に職人街を形成していました。南西にはモンケ・ハーンの建立した壮麗な仏教寺院が存在していたと考えられています。北西地区には建物の跡が少ないことから、遊牧民のゲル地区だったのではないかと指摘されています」

首都カラコルムはチンギス・ハーンの孫によって終わる。
1267年5代皇帝フビライ(クビライ)が大都(=北京)に遷都。
1271年に国名を「元」とする。
カラコルムがモンゴル帝国の首都だった期間は三十年ほどだったが、
その後も繁栄していた。
1333年に即位したフビライの五代後の皇帝トゴン・テルムは、
1347年、許有壬に命じて文案を作成させ、
「勅賜興元閣碑」(=「亀石」)をカラコルムに設置。
父祖の栄光を刻ませた。

大都(=北京)を首都とする「元」は、明王朝に攻められる。
1368年、トゴン・テルム帝は北京を捨てて「北帰」=百年前の自分たちの故郷にもどる。
世界史的には中華王朝「元」は終わり、「北元」として再出発したことになる。

モンゴル民族の再襲来をおぞれた明の永楽帝は、
北に逃げたモンゴル人たちをそのままにはしなかった。
1410から五回も遠征し戦いをしかけ、カラコルムは廃塵となった。
この時に「亀石」も破壊されたと推察できる。

百五十年ほど後、
1586年、破壊されたカラコルムの残骸を使って、
モンゴルに現存する最古の仏教寺院エルデニゾーが建設された。

バラバラになっていた「亀石」は寺院や仏塔の土台や壁に使われた。

※エルデニゾー寺院の話にリンクします
今やまったくの草原にもどってしまったカラコルムが
エルデニゾーのすぐ南に位置していたことは衛星調査で確認された。

★現代の発掘
1889年、帝政ロシアのアカデミーが「オルホン探検隊」を編成。
※オルホン渓谷は遺跡が多く残されている地域
1892年、探検隊長のラドロフⅤ.Ⅴ.Radlof。文字の書かれた石片をはじめて発見。
ラドロフは石片が「亀石」の上の碑文のものとは気づかなかった。
1897年、ポーランド人のコトヴイチⅤ.L.Kotvichが
  彼はモンゴル語の文面の3破片をエルデネ=ゾー寺院で発見。
1926年、ソ連のポッペN.N.Poppeもエルデニゾー寺院内からモンゴル語文面の2破片を発見。
1952年、アメリカ人研究者クリーヴスF.W.Cleavesがモンゴル語と漢字面の対象訳を試みる。
1984年、中国の研究者Dobuが四つの石片の再構成図をはじめてつくる
2003年、ドイツ・モンゴル共同発掘隊が新たな石片を発見。
2009年、9月日本・モンゴル共同調査隊が1897年にコトヴィチが発見した石片を再発見。

日本が全面協力して建設されたカラコルム博物館に資料の多くが集められている。

**
2024年8月モンゴルから帰国すると、
カラコルムがモンゴルの新首都として開発されるコンペを
隈研吾さんの案が勝ち取ったと報じられた。

現地でガイドさんがちらっと話していた「夢物語」が現実になる?
※ヤフーニュースにリンクします
1220年にチンギス・ハーンが決めたモンゴルの首都カラコルムは
800年を経て復活するのだろうか。

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