「世界遺産」登録を記念して2018年に発行された頭ヶ島教会の切手には、掃除をする女性が描かれている。
彼女・頭島サナさんの家は教会の目の前で、三十年以上教会の前の道を掃除しておられた。2015年のドキュメンタリー番組当時、彼女の家を含む七戸だけが集落を守っていたそうだ。※番組のことが書かれたブログにリンクします
三十年も掃除を続けられていた姿は信仰そのものに思える。
サナさんは番組と同じ年に亡くなられた。
**
11月20日AOKAを出て有川へ向かうと↓「鯨見山」が見えてきた↓
解説版によると、山の上の「山見小屋」から鯨が来たことを知らせていた。
「一番多く捕れた年は、元禄11年(1698年)の83.5頭」とあった。
※なぜ「.5頭」なのだろう?
一週間に一頭か二頭も鯨が捕れていたのか。
丘の下の神社は鯨のあごの骨が鳥居になっている。
かつては髭など他の部位も飾られていたのだが風雨で朽ちてしまい、あごの骨だけはコーティングして保存したとのこと。
江戸から昭和まで三百年も続いた捕鯨の歴史がある。
※2020年有川のフェリーターミナルに巨大な鯨の骨が飾ってありました
↑近くに土俵↑有川出身の横綱にちなんだ「佐田の山杯」が行われていたのだそうだ↑
佐田の山は=出羽の海理事長で、舞の海の師匠※舞の海との写真にリンクします
複雑な入り江をくねくね走る。
崎浦は昭和三十年代まで「五島石」の採石がおこなわれていた。
長崎県の景観保護地区になっている※リンクします
石塀はその名残。
頭が島の空港開設にあわせて1981年に建設された赤い橋を渡って頭ヶ島に入る。
※2018年空港まで行った時のブログにリンクします、石油備蓄基地の話も書いています
尾根から↑ロクロ島に護られた入り江の集落が見下ろせる↓
↑頭が島教会の赤い屋根が見えた。
頭が島はもともと伝染病患者が隔離される場所だったので地元の人々が近寄らなかった。
だからこそ「隠れ切支丹」には好都合だった。
冒頭の教会に到着
立派な駐車場と事務所も整備された。
頭が島のジオラマ
山ばかりで耕作地など見えない。
この教会は鉄川与助が29歳の時最初に手掛けた石造りの教会。
石材の扱いに慣れていなくて、てはじめに教会の前にある司教館を建てたのだそうだ。
↑こちらの方が教会より前にあったのか。
石は入り江を護るようにある「ロクロ島」から切りだしていた。
「ロクロ」とは胴体のこと。
伝説では仏像のアタマが見つかったのが「頭が島」で、胴体が見つかったのが「ロクロ島」。
ステンドグラスを入れる経済的余裕はなかった。
***
再び赤い橋を渡り中通島へもどる。
坂本龍馬の記念碑がある。
仲間の乗った船が嵐に遭って沈没したのがこの近く。
ただ沈没したのではなく、複雑な経緯があるようだがまた別の機会に。
****
土井の浦へ行く途中に立ち寄る。
百年以上前の教会だが内部は最近塗り替えられていた。
前回訪れた時、内装の椿は真っ赤に塗ってあったが、今回は薄いピンクに変わっていた。
*****
土井の浦への途中にいくつも小さなキリスト教徒の集落がある。
それらはほとんどがカトリックだが、桐の集落だけは「カクレ」を引き継いでいるとドライバーさんが教えてくれた。
江戸時代に弾圧され潜伏していた切支丹たちは、明治になって再び出会ったカトリックとは似て非なる宗教になっていた。
小説「五島崩れ」の中で描かれているように、礼拝の日時や形式を「間違えた」まま何世代も引き継いだ。フランスからやってきた司祭が「それは間違いです」と否定しても、すんなり受け入れることはできなかった。父祖を「間違った」礼拝で見送り・祀っていたとは思いたくなかった。
カトリック教会は、「隠れ切支丹」時代のモノは焼き捨ててから復帰せよと命じてきた。
代々大切に引き継いできたモノを否定させるやりかたに納得できない人々は、今も父祖からの「カクレ」を継承している。
土井の浦港からチャーター船。
四年ぶりにHさんが迎えてくださった。
彼女・頭島サナさんの家は教会の目の前で、三十年以上教会の前の道を掃除しておられた。2015年のドキュメンタリー番組当時、彼女の家を含む七戸だけが集落を守っていたそうだ。※番組のことが書かれたブログにリンクします
三十年も掃除を続けられていた姿は信仰そのものに思える。
サナさんは番組と同じ年に亡くなられた。
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11月20日AOKAを出て有川へ向かうと↓「鯨見山」が見えてきた↓
解説版によると、山の上の「山見小屋」から鯨が来たことを知らせていた。
「一番多く捕れた年は、元禄11年(1698年)の83.5頭」とあった。
※なぜ「.5頭」なのだろう?
一週間に一頭か二頭も鯨が捕れていたのか。
丘の下の神社は鯨のあごの骨が鳥居になっている。
かつては髭など他の部位も飾られていたのだが風雨で朽ちてしまい、あごの骨だけはコーティングして保存したとのこと。
江戸から昭和まで三百年も続いた捕鯨の歴史がある。
※2020年有川のフェリーターミナルに巨大な鯨の骨が飾ってありました
↑近くに土俵↑有川出身の横綱にちなんだ「佐田の山杯」が行われていたのだそうだ↑
佐田の山は=出羽の海理事長で、舞の海の師匠※舞の海との写真にリンクします
複雑な入り江をくねくね走る。
崎浦は昭和三十年代まで「五島石」の採石がおこなわれていた。
長崎県の景観保護地区になっている※リンクします
石塀はその名残。
頭が島の空港開設にあわせて1981年に建設された赤い橋を渡って頭ヶ島に入る。
※2018年空港まで行った時のブログにリンクします、石油備蓄基地の話も書いています
尾根から↑ロクロ島に護られた入り江の集落が見下ろせる↓
↑頭が島教会の赤い屋根が見えた。
頭が島はもともと伝染病患者が隔離される場所だったので地元の人々が近寄らなかった。
だからこそ「隠れ切支丹」には好都合だった。
冒頭の教会に到着
立派な駐車場と事務所も整備された。
頭が島のジオラマ
山ばかりで耕作地など見えない。
この教会は鉄川与助が29歳の時最初に手掛けた石造りの教会。
石材の扱いに慣れていなくて、てはじめに教会の前にある司教館を建てたのだそうだ。
↑こちらの方が教会より前にあったのか。
石は入り江を護るようにある「ロクロ島」から切りだしていた。
「ロクロ」とは胴体のこと。
伝説では仏像のアタマが見つかったのが「頭が島」で、胴体が見つかったのが「ロクロ島」。
ステンドグラスを入れる経済的余裕はなかった。
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再び赤い橋を渡り中通島へもどる。
坂本龍馬の記念碑がある。
仲間の乗った船が嵐に遭って沈没したのがこの近く。
ただ沈没したのではなく、複雑な経緯があるようだがまた別の機会に。
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土井の浦へ行く途中に立ち寄る。
百年以上前の教会だが内部は最近塗り替えられていた。
前回訪れた時、内装の椿は真っ赤に塗ってあったが、今回は薄いピンクに変わっていた。
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土井の浦への途中にいくつも小さなキリスト教徒の集落がある。
それらはほとんどがカトリックだが、桐の集落だけは「カクレ」を引き継いでいるとドライバーさんが教えてくれた。
江戸時代に弾圧され潜伏していた切支丹たちは、明治になって再び出会ったカトリックとは似て非なる宗教になっていた。
小説「五島崩れ」の中で描かれているように、礼拝の日時や形式を「間違えた」まま何世代も引き継いだ。フランスからやってきた司祭が「それは間違いです」と否定しても、すんなり受け入れることはできなかった。父祖を「間違った」礼拝で見送り・祀っていたとは思いたくなかった。
カトリック教会は、「隠れ切支丹」時代のモノは焼き捨ててから復帰せよと命じてきた。
代々大切に引き継いできたモノを否定させるやりかたに納得できない人々は、今も父祖からの「カクレ」を継承している。
土井の浦港からチャーター船。
四年ぶりにHさんが迎えてくださった。