9月4日

2006-09-04 05:50:36 | Weblog


     のこん菊 (赤塚植物園)

   切株が坐れと二つ野紺菊     太田土男

今年はもう野紺菊が咲いていた。
写真では青く写ってしまうがほとんど白色。
2センチほどの花が一叢・・枝も細く葉も小さい
脛ほどの高さになっている。

さて掲句、野紺菊への目線をうまく捉えている。
切株が二つというのだから、作者ともうひとりの人の
存在がある、また「坐れ」という擬人方を用いたのも
作者が強く心を惹きつけられたからだろう・・・
こうしたしっかりとした写生のもとの物語が俳句を
楽しませてくれる。もうひとつ目線を上手く捉えた句。

  露天風呂首の高さに野紺菊    毛塚静江

この句がなぜ「首の高さ」なのか?「目の高さ」ではない
のか?その辺が鑑賞理解できれば作者の露天湯の
中での姿が見えてくる。

こういう句を沢山鑑賞することも説明、報告俳句から
抜け出せる勉強になる。

  鑑賞
人が対峙した時に相手の首を見るには、頭を下げる事も無く
見られる。普段の目線は相手の目元から口元に有るから。
首ならばほんの少し目線を下げればよい。
湯にどっぷりと浸かった視線では野紺菊を見上げなければ
ならない。作者は露天湯の淵か湯の中の踏み石に腰掛けて
いる。少なくとも半身は晒している。
この句のよろしさは、作者がいかに開放的にいるかなんです
ただ開けっぴろげの開放感ではなく、作者から見た首の高さ
つまり伏目がちに、近くに咲く野紺菊を見ているアンニュイが
その後を想像させてくれます。
作者は日頃、どちらかと言えば制約の多い生活をなさって
いるのだろうと想像される。
半身を自然に晒すという事は作者にとって日常からの開放
であり日常への反発なのだろう。
幾通りも鑑賞はあると思うが作者の露天湯の姿を「首の高さ」
から行き着けば鑑賞の目は確かだと思います。

コメント (3)
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