(てっぽうゆり 赤塚植物園)
鉄砲百合の狙いさだめし峠口
たまにはこんな詠み方もしてみました。
青畝さんのあの力が抜けていて的を得た詠み方は
魅力的ですよね。
子分跳び親分飛跳ばず蟇 阿波野青畝
これが数十年経た句なんですからね・・・・
秀句はいつも新しい。
きっと、ずーっとこの蟇を見ていたんでしょう。
あまり動かない大きい方に親分の貫禄を見た。
親分が右を向けば、右にいた小さな子分がひょいと跳んだ。
こりゃ、親分の威光はすごい!なんてね。
ず~と見ている。親分子分と感じるまで見ている。
これが本来の写生でしょう。
嘱目のお題で詠みこむのも俳句ではありますが・・・
短時間での嘱目や少し洒落た言葉で詠んでみても
なかなか自分の歴史に残る句は生まれないでしょう。
昨年の9月に参加した現俳の講演会での坪内稔典さんの
話のなかに、「句会の高点句で有ってもそれだけで、残る句
とは言えない」そんなような表現だったと思うのですが、
印象的でした。
ころころも目指すところはらしい俳句の確立なのです。
まだまだ修行がたりません。
(菩提樹の花)
菩提樹の花芳しき御堂かな
カメラの達人でもある連衆のムーさんとの雑談に思う、
俳句は写真では無いが、写真のようなもの・・・
掲載の写真は菩提樹の花と観音堂、ここにお坊さんと
蝶と観音堂が開いて中を拝することが出来たら
もう俳句に詠みこむことは難しい。
詠みたいもの(写したいもの)を一点に絞り、一景を切り取る
作業はまさしく同じですが、写真だけではここが観音堂とは
わからない、また句だけではこの花の色や日差しまでは
伝えることは出来ない。欠点を補うものが修練なの
だろうと思う。写真も俳句も程ほどの省略がよいのだろう。
伝えようとして伝わらない、そのもどかしさも俳句ならではの
楽しみの一つでも有るのですが・・・
(苔の花と日の斑)
涼しさや日の斑のあそぶ苔の上
いろいろ生意気な事を書きつつ、まだまだ迷いがある
のは修行の足らないところだろう。
ここのところの吟行でも木洩れ日と日の斑の詠み込み
方を考えていた。自分の解釈では、相反するもので
斑は影、木洩れ日は日当たり、つまり陰と陽の関係で
日の斑を詠むことで日当たりを暗喩し、木洩れ日を詠む
ことで影を暗喩する。表現したものの裏側を作為を見せず
読み手に伝えることが詩情ではないかと考えていたから。
先日参加した句会でこの両方を一句にしたためた高点句
があった。互選に加わり予選では頂いたものの本選では
頂かなかった。その辺りにまだ拘りがあるからだろう。
私にとって句会は高点を得るためのものでなく
自分の鑑賞力、観察力、感性を他の連衆と比較して
実感するところ。つまり他人の目を通して自分を見つめる
ところ、修行の場だと思っている。
高点を得た句を残すのではなく、高点を得た心の昂揚を
積み重ねてゆく事こそが大切な修行でもある。
句会の選評にも少し付け加えたが、吟行句会では秀拙を
問わず挨拶句を必ず詠むことをお薦めします。
挨拶句は俳句の基礎、発句になるもので、自然に大きな景
を詠めてしまうものです。そんなことが少し気になりました。
滝壷へ砕け散ったる日の欠けら
(マイコアジサイ 白山神社)
ここ数日は何となく忙しく、書き込みもまばらでした。
やっと東京も午後からの雨で梅雨に入ったようですね。
俳句をしない友人は、もし日本に四季が無かったら
俳人は困るだろうね・・なんてひやかしますが、本当に
そうですね。
俳句は季題を詠むものでもありますから・・・
季語集も一季だけのもので、そうなったら無季の俳句も
もっと詠まれるのでしょう。
まあ、いろいろ志向されることも良いことで、有季、無季で
目くじらを立てるより十七音の世界を楽しむことが一番で
ありましょう。
何でもそうでしょうが、ころころの場合、俳句をやってて
職場や一般社会では得られない友人に出会えたこと、
例えば紫陽花など植物の観察を楽しむこと、それに
かこつけて旅の機会が増えたこと。などなど・・・
いっぱい俳句と俳句のまわりを楽しんでいます。
皆さんはどうでしょうね。
今日アップした写真「舞妓紫陽花」と言うそうです。
命名者の詩情も大したものです。
今まで紹介してきた紫陽花はみな「ユキノシタ科」の植物です。
今でこその花を楽しみましょう。
海霧深し島にひとつの濡れ仏