(哲学カフェで言い残したことの、考えのまとまらないメモです。別にまとめるつもりですが…どうなるかわかりません)「優性思想とは国家が政策として行ったとき…」ここに引っかかりを感じて帰りました。
確かに、ナチスや日本(戦後を含む)など、歴史的にはそうだったのかもしれません。もちろん、個々人が内心どんな差別主義の思想を抱いていても、一人一人追及して罪を暴き立てることはできないし、それこそ思想警察に繋がります。
ただし、今の時代に国家が優性政策を実行するという事態は(内戦でのジェノサイドは別として)まずありえません。
むしろ、個々人の思想が集まった社会の「空気」として、今回少し紹介した「新しい出生前診断」で異常が発見されれば中絶するのが当然という無言の圧力(※)が形成されれば、国の政策というあからさまな形を伴わない「優性思想(優性政策)」と考えることができるのではないでしょうか。
※→該当疾患の子が生まれたら、親が出生前診断と中絶の機会を逃して、社会への迷惑をかえりみず「自分勝手に」産んだのだから、その費用は親が負担すべきという「空気」。
実は、その「新しい出生前診断」について、学会で限定した基準を逸脱した商業ベースの検査をネット上で提供する会社(医師)がいま問題になっています。(メディアはどこも取り上げていないので知られていませんが)
学会の基準というのは何ら強制力を伴わないものですので、このような事態は最初から予見されたものでした。(だから、私はこの検査が「一線を越えた」ものだと当初から考えていました)
「優性思想は全否定されるべきものなのか」という観点で考えてみます。重い遺伝病について、絨毛検査や受精卵診断なども限定的に行われており、「新しい出生前診断」で検出できる3つの染色体異常(21トリソミー=ダウン症候群、18トリソミー、13トリソミー)との間で一線を引くことは困難です。
私のかつての感覚では「18」と「13」はやむを得ないが、「21」は抵抗感があるというものでしたが、「18」や「13」でも数年という長期生存例があることを見聞きすると、このような検査の実用化が親と子にとって福音と言えるのか、過去、現在、未来のいずれが幸せなのかわからなくなります。
学会では臨床研究として基準を満たした施設と対象者に限って実施しているという名目になっていますが、実際には発見された94%(3年間で400人弱)が中絶しているという結果が明らかになっています。
一人一人の親の選択の結果が総体として94%という数字になっただけだと言うこともできます。その判断の積み重ねが「結果的に」ダウン症候群や他の2つの染色体異常を減らすことにつながるのであれば、否定することは何もないと。
親が幸福追求権を行使すれば、結果として社会への「迷惑」も減るし、誰にとってもハッピーである。別の事例で、私は「当事者の論理」という言葉を使ったことがありますが、これもその言葉が当てはまるのかもしれません。
ここで「誰にとってもハッピー」とか「当事者の論理」などという乱暴な言葉で書きましたが、お気付きの通り、「胎児」という「当事者」の論理が抜け落ちています。憲法は胎児の幸福追求権まで保証してくれません。中絶されてしまえば、幸福を追求しようがないのですから。
親の幸福追求権とは、「異常を持った赤ちゃんが生まれない方が(親にとっても子にとっても)幸せである」という判断だと言い換えることも可能かもしれません。その、一人一人の親の判断の総体が94%という数字である。決して、中絶した親を非難しているのではありません。
「優性思想は全否定されるべきものなのか」という問い対する決まった解答は得られそうにありません。商業ベースの検査会社が問題視されるのは、一つには偽陽性の存在を知らずに羊水検査をせず中絶する可能性、もう一つはここに書いたような逡巡を何ら経ずに判断される可能性が高いこと。
(「優性思想を全否定する」ことから始めると現実を無視することになると思いますが、やはりまとまりませんでした)
確かに、ナチスや日本(戦後を含む)など、歴史的にはそうだったのかもしれません。もちろん、個々人が内心どんな差別主義の思想を抱いていても、一人一人追及して罪を暴き立てることはできないし、それこそ思想警察に繋がります。
ただし、今の時代に国家が優性政策を実行するという事態は(内戦でのジェノサイドは別として)まずありえません。
むしろ、個々人の思想が集まった社会の「空気」として、今回少し紹介した「新しい出生前診断」で異常が発見されれば中絶するのが当然という無言の圧力(※)が形成されれば、国の政策というあからさまな形を伴わない「優性思想(優性政策)」と考えることができるのではないでしょうか。
※→該当疾患の子が生まれたら、親が出生前診断と中絶の機会を逃して、社会への迷惑をかえりみず「自分勝手に」産んだのだから、その費用は親が負担すべきという「空気」。
実は、その「新しい出生前診断」について、学会で限定した基準を逸脱した商業ベースの検査をネット上で提供する会社(医師)がいま問題になっています。(メディアはどこも取り上げていないので知られていませんが)
学会の基準というのは何ら強制力を伴わないものですので、このような事態は最初から予見されたものでした。(だから、私はこの検査が「一線を越えた」ものだと当初から考えていました)
「優性思想は全否定されるべきものなのか」という観点で考えてみます。重い遺伝病について、絨毛検査や受精卵診断なども限定的に行われており、「新しい出生前診断」で検出できる3つの染色体異常(21トリソミー=ダウン症候群、18トリソミー、13トリソミー)との間で一線を引くことは困難です。
私のかつての感覚では「18」と「13」はやむを得ないが、「21」は抵抗感があるというものでしたが、「18」や「13」でも数年という長期生存例があることを見聞きすると、このような検査の実用化が親と子にとって福音と言えるのか、過去、現在、未来のいずれが幸せなのかわからなくなります。
学会では臨床研究として基準を満たした施設と対象者に限って実施しているという名目になっていますが、実際には発見された94%(3年間で400人弱)が中絶しているという結果が明らかになっています。
一人一人の親の選択の結果が総体として94%という数字になっただけだと言うこともできます。その判断の積み重ねが「結果的に」ダウン症候群や他の2つの染色体異常を減らすことにつながるのであれば、否定することは何もないと。
親が幸福追求権を行使すれば、結果として社会への「迷惑」も減るし、誰にとってもハッピーである。別の事例で、私は「当事者の論理」という言葉を使ったことがありますが、これもその言葉が当てはまるのかもしれません。
ここで「誰にとってもハッピー」とか「当事者の論理」などという乱暴な言葉で書きましたが、お気付きの通り、「胎児」という「当事者」の論理が抜け落ちています。憲法は胎児の幸福追求権まで保証してくれません。中絶されてしまえば、幸福を追求しようがないのですから。
親の幸福追求権とは、「異常を持った赤ちゃんが生まれない方が(親にとっても子にとっても)幸せである」という判断だと言い換えることも可能かもしれません。その、一人一人の親の判断の総体が94%という数字である。決して、中絶した親を非難しているのではありません。
「優性思想は全否定されるべきものなのか」という問い対する決まった解答は得られそうにありません。商業ベースの検査会社が問題視されるのは、一つには偽陽性の存在を知らずに羊水検査をせず中絶する可能性、もう一つはここに書いたような逡巡を何ら経ずに判断される可能性が高いこと。
(「優性思想を全否定する」ことから始めると現実を無視することになると思いますが、やはりまとまりませんでした)