熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「白いリボン(原題:Das Weisse Band)」

2011年01月04日 | Weblog
作品が始まってほどなくして、フィリップ・クローデルの小説「ブロデックの報告書」を思い出した。どちらも、或る村での出来事が、その共同体の部外者の目を通して語られている。この作品のほうは、その語り手が教師であるというところが鍵だろう。教師にとって最も身近なのは自分の教え子である子供たちだ。村の子供たちの姿を通して、村の社会を活写すると同時に、子供は社会の柵から相対的に距離がある分、人の本性に近いところでの行動や情動を表現しているのだろう。

舞台は1913年の北ドイツ内陸の村。封建領主が村の約半分の雇用を賄っている。領主に直接雇用されない人々も、領主の農場や屋敷で働く人々を対象にした商売で生計を立てているので、実質的には村全体が領主の家庭のようなものだ。つまり、領主はこの村という「世界」のなかでの実質最大の権威といえる。村の教会はプロテスタントだ。カトリックにとってのローマ教皇のような絶対権威が無い代わりに、それぞれの地域に根ざした独自の「教会経営」が求められる。この村で領主が実質的に絶対的権威であれば、この村の牧師もキリスト教という一見普遍性があるかのような看板を掲げながらも、実体としてはその地元の権威に寄り添わないことには生活が成り立たない。

生活に平穏や安定を求めるなら、秩序が必要なのである。そして、我々の生活が本来的に不確実性のなかにある限り、人々はそこに生きる不安を払拭すべく秩序を希求するのである。それは政治という明確な形式でもあり、宗教という情緒的なものでもある。いずれにしても便宜的なものだ。普遍性がないから永続しない。矛盾だらけだから、別の政治体制や宗教と対立せざるを得ない。人間の歴史が血塗られたものであるのは当然のことなのである。しかし、秩序というものは、それが適切なものであろうとなかろうと、社会の認知を受け、守られなければ、秩序として機能しない。それをいかに円滑に機能させるかというところに、その社会の文明や文化の性能が問われるのである。

この作品で、村の社会は人間の社会そのものを模しているのだろう。村の文明や文化を試しているのは子供たちの眼だ。領主は村という共同体に対して責任を負うているかのようなふりをしているが、その関心はもっぱら自分の欲望にしかない。牧師は外見を取り繕うことで自身の権威を正当化して見せることにしか関心がない。領民は自分の生活を維持することで精一杯だ。それでも、人々は村の秩序に従うことで、自らの生活を守ろうとするのである。子供たちの生活は親たちによって守られているので、自ら積極的にこの秩序に参加する動機に乏しい。「岡目八目」というが、距離を置けば、当事者には見えないものも見えたりするものだ。無邪気な好奇心と秩序の抑圧に対する反抗とが入り混じり、多少なりとも知恵と能力がある子供たちは、この秩序という共同幻想に挑戦を試みるものなのだろう。

作品を構成するひとつひとつの事件は、そうした挑戦が具現化したものだ。事件が起こるたびに、大人たちは暴力的な抑圧で、破綻しかけた幻想を取り繕う。小さな村のなかの、大人と子供の間のことなら、それでも秩序は守られるのだろう。しかし、より大きな世界で、その大きな世界を守っている秩序への挑戦が行われたら何事が起こるだろうか。それが、この作品のなかでは1914年のサラエボ事件となっている。そして、その後に何が起こったのか、現代に生きる我々は知っている。