以前にも書いたように自炊用の食材はほぼ全量を生協の宅配で賄っている。週に一度の配達で、毎回カタログから選んでネットで発注する仕組みだ。産地が明記されているので、その時々でその土地土地の様子を想像する楽しみもある。野菜類は東京周辺のものが多いような印象があるが、果物はそれぞれに得意とする地域があるのだろう。それでも小田原産のキーウィというのは意外感があった。また、タイ産のバナナに貼ってあった番号を指定されていたネットサイトから検索したら生産農家だというおじさんがにこやかに畑に立っている映像が出てくるというのも楽しかったりする。
玉葱やピーマンのように通年で発注しているものもあるが、多くの野菜や果物はそれぞれに旬がある。桃が好きなので、昨年の夏などは毎回のように桃をいただいていた。果物では、今の時期はやはりリンゴとミカンが旬なのだろう。嫌いなわけではないのだが、ミカンにはなんとなく手が出ない。逆に特別好きでもないのだが、リンゴは食卓に絶えることがない。自分で作った陶器の鉢に果物を盛ってテーブルの中央に置いておくのだが、リンゴが積み上げてある様子というのが、なんとなく好きだ。果物に関してこの1年間を振り返れば、冬はリンゴで夏は桃、秋の短期間を柿、その端境期はキーウィやバナナなどで埋めるというパターンだった。
果物の多くは木に生るものなので季節性が強く出るが、野菜はハウス栽培もあるので果物ほどの季節感は出ないように思う。それでも、例えば今の時期は春菊がおいしい。最近はよく昆布の出汁で牡蠣と茸を煮て味噌と酒で味を調え、そこに春菊を一把、適当な大きさに切り揃えたものを入れて数分間蒸すような感じにしたものを作っていただいている。春菊一把というと、見た目には多く感じるが、火を通すと水分が抜けてしまうので嵩は小さくなって、ひとりでも十分に食べきれてしまう。もちろん食べて美味しいが、鍋の蓋を取ったときに、ふわっと上がる春菊の香りがいい。これは短時間でできる、いや短時間で作らなければならない料理なので、普段の食卓にちょうどよい。春菊も牡蠣もキノコ類も火を通しすぎると美味しくなくなってしまうので、手早く作ることが肝心だ。
一人暮らしなので、使用量や使い残したものの保存の関係で使いづらい食材もあるので、旬のものならどのようなものでも使ってみるというわけにはいかないのは残念に思っている。しかし、それは私自身の工夫でどうにでもなることではある。少しずつ新しい食材を取り入れていくよう心がけたいものだ。
また、以前にも書いた記憶があるが、インスタントやレトルトなどの工場生産品はなるべく自炊の食卓には用いないことにしている。食品加工の技術や、そうしたことに関わる人々の気概や情熱を否定するつもりはないのだが、人の命を紡ぐのは物理的な栄養素ではなくて、その背後になければならない気持ではないかと思うのである。その気になれば生産している人に会いに行くことのできるようなもので生活を作りあげていくことを楽しいと感じることができなくなったら、その時は死のうと思う。
玉葱やピーマンのように通年で発注しているものもあるが、多くの野菜や果物はそれぞれに旬がある。桃が好きなので、昨年の夏などは毎回のように桃をいただいていた。果物では、今の時期はやはりリンゴとミカンが旬なのだろう。嫌いなわけではないのだが、ミカンにはなんとなく手が出ない。逆に特別好きでもないのだが、リンゴは食卓に絶えることがない。自分で作った陶器の鉢に果物を盛ってテーブルの中央に置いておくのだが、リンゴが積み上げてある様子というのが、なんとなく好きだ。果物に関してこの1年間を振り返れば、冬はリンゴで夏は桃、秋の短期間を柿、その端境期はキーウィやバナナなどで埋めるというパターンだった。
果物の多くは木に生るものなので季節性が強く出るが、野菜はハウス栽培もあるので果物ほどの季節感は出ないように思う。それでも、例えば今の時期は春菊がおいしい。最近はよく昆布の出汁で牡蠣と茸を煮て味噌と酒で味を調え、そこに春菊を一把、適当な大きさに切り揃えたものを入れて数分間蒸すような感じにしたものを作っていただいている。春菊一把というと、見た目には多く感じるが、火を通すと水分が抜けてしまうので嵩は小さくなって、ひとりでも十分に食べきれてしまう。もちろん食べて美味しいが、鍋の蓋を取ったときに、ふわっと上がる春菊の香りがいい。これは短時間でできる、いや短時間で作らなければならない料理なので、普段の食卓にちょうどよい。春菊も牡蠣もキノコ類も火を通しすぎると美味しくなくなってしまうので、手早く作ることが肝心だ。
一人暮らしなので、使用量や使い残したものの保存の関係で使いづらい食材もあるので、旬のものならどのようなものでも使ってみるというわけにはいかないのは残念に思っている。しかし、それは私自身の工夫でどうにでもなることではある。少しずつ新しい食材を取り入れていくよう心がけたいものだ。
また、以前にも書いた記憶があるが、インスタントやレトルトなどの工場生産品はなるべく自炊の食卓には用いないことにしている。食品加工の技術や、そうしたことに関わる人々の気概や情熱を否定するつもりはないのだが、人の命を紡ぐのは物理的な栄養素ではなくて、その背後になければならない気持ではないかと思うのである。その気になれば生産している人に会いに行くことのできるようなもので生活を作りあげていくことを楽しいと感じることができなくなったら、その時は死のうと思う。