熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「天地明察」

2011年01月26日 | Weblog
久しぶりに小説を読んだ。なぜこの本を選んだのか、今となっては理由がわからないのだが、部屋に積み上げられている未読本のなかにあった。おそらく、どこかで読んだ書評かなにかで興味を覚えて発注したのだろう。

歴史上の人物をモチーフにしているが、司馬遼太郎の作品に見られるような人や文化のあるべき姿に対する強い思い入れのようなものは感じられず、純粋にエンターテインメントとして書かれたような印象を受けた。物語の展開が小気味良く、テレビドラマのような軽快なリズムがある。改暦という、その時代に広く受け容れられている習慣を覆す壮大な話なのだが、肩肘を張るのではなく、登場人物たちの個人的な興味や情熱が、結果として世の中を変えるというところに面白さがある。主人公に私利私欲が無く、己の生き方を貫くなかで、それを評価する様々な世界の人達が現れ、それが大きな運動となって世の中全体をひっくり返すようなことに至るダイナミズムが読み手に心地よさを感じさせるのだろう。

エンターテインメントの常として、主人公が所謂「良い人」ということも肝要だ。渋川春海が本当はどのような人なのかを知っている人は今の時代に誰もいないのだから、人物像はいくらでも創造できるし、エピソードもいくらでも設定できる。下手にリアリティを求めるよりも、この作品のように単純化したほうが、読み手にとっては気持ちよく作品の世界に没入できる。しかし、それでは物語は消費されるだけで、何事かを読者の中に創り上げるというようなことは期待できないのではないか。

内容はいくらでも膨らませることのできる要素を抱えながら深くは掘り下げていない。そのあたりの加減に作者が悩んだ形跡が窺えないこともない。作家という職業を全うしようとするなら、表現したいものと表現できるものとの葛藤は常のことだろう。ましてや、昨今の出版事情は厳しさを増すばかりだ。しかし、そうした厳しい時代だからこそ、いまどき本を手にする人はそれ相応のリテラシーを持ち合わせているはずなのだから、もう少し読者を信頼してもよいのではないかとも思う。

ただの「良い話」、ただの「良い人」、爽やかな読後感、というような要素が無いと、出版物として世に出ないということであるなら、それは今という時代が恐ろしく貧困な時代になり下がっているということでもある。