子供が誕生日のプレゼントに電動ハンドミキサーが欲しいというので、店をいくつか探して歩いた。
その前に、カメラの調子が悪いというので、購入店であるヨドバシカメラに持ち込んで見てもらった。売り場に持っていくと、すぐに対応してくれて、問題箇所の特定も難なくなされた。量販店はいくつもあるが、売り場の店員はヨドバシが一番信頼できると思う。生憎、その場で修理できるものではなく、メーカーに依頼しないといけない内容だったのだが、何がどう悪いのかということがわかっている上で依頼するのと、わけもわからず依頼するのとでは、気分が大いに違う。ネット上の流通網が発展して、説明や相談を要しない電気製品や精密製品はアマゾンなどの無店舗業者を利用したほうが経済的なのだが、こうしたアフターサービスが必要な場合を考えると、多少割高でもリアル店舗を利用したほうが安心感が強い。
問題のハンドミキサーだが、調理器具ということで東急ハンズを訪れた。売り場には、バーミックスをはじめとするいくつかの製品が並んでいたが、説明をしてくれる店員がいない。まだその店員が出勤前とのことで、製品の説明ができる人がいないという。物を並べるだけで商売をするのなら、私にでもできる。何のためのリアル店舗なのか、ということが理解されないままに店舗を運営していれば、売上が伸びないのは当然だ。
次に、あまり期待をせずに、伊勢丹に行ってみた。ハンドミキサーはバーミックスしか扱っていない。百貨店、特に新宿伊勢丹の営業の主力は衣料品であり、それ以外のものは飾りでしかないことは承知しているので、素直に別の店を探すことにする。
場所を渋谷に変えてみた。ミキサーを探す前に腹ごしらえである。渋谷は2000年夏から2001年暮れまで1年3ヶ月間勤めていた先があった。その建物は246号線沿いだったが、この周辺は比較的個性的な飲食店に恵まれていた。勤務期間が1年3ヶ月と短かった所為もあり、外出の多い仕事であった所為もあり、自信を持って語るほど通ったところは少ないのだが、好きな店というのがいくつかあって、嬉しいことにそれらが10年を経ても営業を続けている。そのひとつは昨年11月26日付のこのブログで書いた「かつ吉」で、もうひとつは今日訪れたトルコ料理の「アナトリア」である。他に建物を建て替えて私が渋谷で働いていた頃とは様子が変わってしまったが、営業を続けている「澤之井」や、やはり建て替えられた「天厨菜館」もよく利用した。今日は「アナトリア」でトルコの煮込み料理をいただいた。
さて、ハンドミキサーだが、結局、東急東横店で購入した。
渋谷から埼京線で十条へ行き、FINDで一服してから子供と別れた。個展の開催中は予定が合わず、子供は来ることができなかったのだが、この店のことは大変気に入ったと言っていた。月に一度しか会わないということもあるのかもしれないが、子供の眼というのは強く意識して生活している。自分にとっては最も身近な他者という親子の関係もあるのだが、時々このブログにも書いているように、私自身は親子というものが特別な関係だとは認識していない。人が生活を送る上で取り結ぶ数多の人間関係のひとつに過ぎないと思っている。ただ、敢えて他の関係と違うところがあるとすれば、親から子へ何事かを伝えることが暗黙の前提とされている関係ということを挙げることができるだろう。親は自分が考える人生というものを一生懸命に生きて見せ、子はそこから何事かを学習して己の人生に反映させる。「何事」のなかで本当に重要なのは言語化できない部分だろう。だからこそ、生きることそのものを見せないと何も伝わらない。生きるということは、本人がどのような認識を持つかということとは関係なく、不確実の世界を歩むことである。暗黙のうちに明日があると信じ、その明日は今日の延長線上にあると確信しているが、本当にそうなる保証など何もない。根拠のない確信の最たるものが我々の極未来観だ。意識するとしないとに関わらず、我々は不確かな世界を生きる不安のなかにある。だからこそ、身近にいて自分の何歩か先を行く者の背から何事かを読み取りながら生きるものなのではないだろうか。また、先を歩く者も身近に視線を感じるからこそ、真っ当であろうと必死で歩を進めるものなのではないだろうか。
その前に、カメラの調子が悪いというので、購入店であるヨドバシカメラに持ち込んで見てもらった。売り場に持っていくと、すぐに対応してくれて、問題箇所の特定も難なくなされた。量販店はいくつもあるが、売り場の店員はヨドバシが一番信頼できると思う。生憎、その場で修理できるものではなく、メーカーに依頼しないといけない内容だったのだが、何がどう悪いのかということがわかっている上で依頼するのと、わけもわからず依頼するのとでは、気分が大いに違う。ネット上の流通網が発展して、説明や相談を要しない電気製品や精密製品はアマゾンなどの無店舗業者を利用したほうが経済的なのだが、こうしたアフターサービスが必要な場合を考えると、多少割高でもリアル店舗を利用したほうが安心感が強い。
問題のハンドミキサーだが、調理器具ということで東急ハンズを訪れた。売り場には、バーミックスをはじめとするいくつかの製品が並んでいたが、説明をしてくれる店員がいない。まだその店員が出勤前とのことで、製品の説明ができる人がいないという。物を並べるだけで商売をするのなら、私にでもできる。何のためのリアル店舗なのか、ということが理解されないままに店舗を運営していれば、売上が伸びないのは当然だ。
次に、あまり期待をせずに、伊勢丹に行ってみた。ハンドミキサーはバーミックスしか扱っていない。百貨店、特に新宿伊勢丹の営業の主力は衣料品であり、それ以外のものは飾りでしかないことは承知しているので、素直に別の店を探すことにする。
場所を渋谷に変えてみた。ミキサーを探す前に腹ごしらえである。渋谷は2000年夏から2001年暮れまで1年3ヶ月間勤めていた先があった。その建物は246号線沿いだったが、この周辺は比較的個性的な飲食店に恵まれていた。勤務期間が1年3ヶ月と短かった所為もあり、外出の多い仕事であった所為もあり、自信を持って語るほど通ったところは少ないのだが、好きな店というのがいくつかあって、嬉しいことにそれらが10年を経ても営業を続けている。そのひとつは昨年11月26日付のこのブログで書いた「かつ吉」で、もうひとつは今日訪れたトルコ料理の「アナトリア」である。他に建物を建て替えて私が渋谷で働いていた頃とは様子が変わってしまったが、営業を続けている「澤之井」や、やはり建て替えられた「天厨菜館」もよく利用した。今日は「アナトリア」でトルコの煮込み料理をいただいた。
さて、ハンドミキサーだが、結局、東急東横店で購入した。
渋谷から埼京線で十条へ行き、FINDで一服してから子供と別れた。個展の開催中は予定が合わず、子供は来ることができなかったのだが、この店のことは大変気に入ったと言っていた。月に一度しか会わないということもあるのかもしれないが、子供の眼というのは強く意識して生活している。自分にとっては最も身近な他者という親子の関係もあるのだが、時々このブログにも書いているように、私自身は親子というものが特別な関係だとは認識していない。人が生活を送る上で取り結ぶ数多の人間関係のひとつに過ぎないと思っている。ただ、敢えて他の関係と違うところがあるとすれば、親から子へ何事かを伝えることが暗黙の前提とされている関係ということを挙げることができるだろう。親は自分が考える人生というものを一生懸命に生きて見せ、子はそこから何事かを学習して己の人生に反映させる。「何事」のなかで本当に重要なのは言語化できない部分だろう。だからこそ、生きることそのものを見せないと何も伝わらない。生きるということは、本人がどのような認識を持つかということとは関係なく、不確実の世界を歩むことである。暗黙のうちに明日があると信じ、その明日は今日の延長線上にあると確信しているが、本当にそうなる保証など何もない。根拠のない確信の最たるものが我々の極未来観だ。意識するとしないとに関わらず、我々は不確かな世界を生きる不安のなかにある。だからこそ、身近にいて自分の何歩か先を行く者の背から何事かを読み取りながら生きるものなのではないだろうか。また、先を歩く者も身近に視線を感じるからこそ、真っ当であろうと必死で歩を進めるものなのではないだろうか。