熊本熊的日常

日常生活についての雑記

続「白いリボン」

2011年01月09日 | Weblog
先日観た「白いリボン」という映画の余韻が続いている。今日、子供へのメールのなかでもこの作品のことを紹介した。前にこのブログに書いたこととは違ったものなので、そのメールのなかの映画についての部分を引用し、前回のブログの補足としておく。

***以下、引用***
先週は「白いリボン」という映画を観ました。たいへん面白い作品です。しかし、

(中略)

さて、「白いリボン」ですが、これはドイツの作品です。舞台は1913年の北ドイツの架空の村です。「1913年」「北ドイツ」というだけで、すぐにいくつかのモチーフが思い浮かびます。1913年は第一次世界大戦の前年、北ドイツは封建制が残るプロテスタントの社会です。そして、この作品ではその村の子供たちが主人公なのですが、この時代の子供たちはナチスドイツを支えた大人たちでもあるのです。

その村で、医師が何者かが仕掛けた罠によって落馬するという事件から物語は始まります。その後も、村人が領主の屋敷の納屋で仕事中に、床が抜けて転落死をしたり、領主の幼い息子が誘拐されてリンチを受けたり、火の気のないはずの荘園の納屋が火事になったり、と不可思議な事件が続きます。なんとなく、一連の事件に子供たちが関わっている雰囲気は漂っているのですが、それを証拠付ける決定的なものは何一つありません。村の領主は村人を人とは思っていませんし、自分に直接関係しない限りは村の出来事に興味はないのですが、村の中の異様な雰囲気に耐えられなくなった領主の妻は子供を連れて実家へ戻ってしまいます。村の秩序を守ることを期待されている教会の牧師は自分の子供たちへの抑圧を強め、学校の教師へも子供たちの監視を強めるよう仕向けます。それはあからさまなものではなく、あくまでも窮屈さを感じさせる雰囲気が醸成されるのです。

この作品の監督は作品についてのインタビューのなかでこのようなことを語っています。
「私の映画は、ドイツのファシズムを解説しようとしたわけではありません。追随に走らせる心理的な根を探っているのです。“厳格な教育”のなかのいったい何が、人間の意志を放棄させてしまうのか。そして憎しみを生むのか。イデオロギーの“笛吹き”についていきたいという欲求は、いつでもどこでも起こるものです。惨めさや屈辱、絶望のあるところでは、救済への渇望がふくれあがる。そしてその救世主が右派または左派のイデオロギーなのか、政治的あるいは宗教的な教義なのかは重要なことではないのです。」

作品の舞台は村という小さな単位の社会ですが、子供という、権力という点において弱い立場の人間が、理不尽な抑圧を受けることで、その権威に対して陰湿な抵抗を示すというのは、人間の社会のどこにでも見られる現象ではないかと思います。この作品のなかでは度を過ぎた悪戯という形でその抵抗が表現されていますが、我々の社会全般を俯瞰すれば、テロも様々な犯罪もそうした抵抗なのかもしれません。

以前に「世界が100人の村ならば」というようなタイトルの本が話題になりましたが、封建制下の村という社会構成が明確な共同体を舞台に、「領主」「教会」「おとな」という権威が「子供」という被支配階層を理不尽に抑圧するという構図は、漠然としたものから規則性や法則性を求めて単純化した模式を抽出するという点で似ています。

欧米日という、これまで世界の政治や経済を牽引してきた地域が揃って長期的な低迷の様相を強める一方で、中国をはじめとする規模の大きな新興地域が従来の秩序を脅かすかのような存在に感じられる、或る意味において「不気味な」時代を迎えています。そういうなかで、こうした作品を観ると、これから自分が生活している社会に何が起こるのか、考えさせられます。

断っておきますが、「不気味」というのは既存の秩序が脅威に晒されているという雰囲気を感じるという点で「不気味」なのであって、不景気や中国が「不気味」ということではありません。物事は常に変化をしています。「栄枯盛衰」という言葉がありますが、始めがあれば終わりがあります。栄えれば、いつかは衰退します。秩序はその場にいるものにとっての秩序であり、永遠普遍というようなものは何一つ無いと私は思っています。

***以上、引用***