熊本熊的日常

日常生活についての雑記

撃墜王

2014年03月01日 | Weblog

『大空のサムライ』を読んで一番印象に残ったのは「あとがき」だった。読み始めて最後になる一番直近の記憶だからという所為もあるだろうが、「運」というものの何事かがそこに雄弁に語られているように思ったのである。著者の坂井三郎は日中戦争から太平洋戦争にかけて200回以上の空戦を闘い、通算64機を撃墜した人物だ。「あとがき」には日頃の心がけのようなことが書かれていたのだが、生活すべてが戦闘機の搭乗員としていかにあるべきかということの実践一色なのである。まず、視力が良くないといけない。そこで、視力低下につながることはしない。例えば、夜更かしや深酒はしない。朝起きてすぐに遠くの樹木を見つめる。街を歩いているときは、遠くの看板の文字を読み取る「訓練」をする。群れ飛ぶ鳥を見つければ、その数をできるだけ早く正確に数える。本を読むときは姿勢に気をつける。昼間に星を探す。また、空中では敵機の動向や味方との連繋も当然ながら、天候という変動要因もあり瞬時に様々なことを判断し対処しないといけない。人間は同時に複数のことは考えられないが、ひとつのことを0.何秒かずつずらしていけば、ほぼ同時に複数ということになると考えてそういう「訓練」をする。蠅やトンボを素手でつかまえる。もちろん、体力と精神力を養うために夏は水泳、冬はランニングも欠かさない。現実にどれほどの時間をそうしたことに割いていたのかは知らないが、日々すべて「訓練」というのは、やはり常人並みではないだろう。それでも、戦闘機の搭乗員は死と隣り合わせだ。それだけの「訓練」を重ねたところで報われるわけではない。

興福寺の解脱上人貞慶に「成否を顧みることなく、深く別願を起こす」という一文があるそうだ。「他ならぬ自分が、仏の世界に至り得るのかどうか。その成否がどうしても気になるのだけれど、そんな成否などあえて顧みず、むしろ、ただひたすらに深く仏の世界を志すのだ。」(多川俊映、興福寺貫首「興福」163号(平成26年3月1日発行)1頁より)という意味なのだという。自分がそうだから他の人もそうだろうと勝手に思うのはいけないかもしれないが、人は易きに流れるものだろう。それにもかかわらず心を励まし何事かに向かってひたすらに思考し行動し続けるということができるのは、その個々の思考や動作の即時的な効果ではなく、それらを蓄積した上での全体に対するイメージがあるからこそ続けることができるのではないか。つまり、成否という皮相な二元論ではなく、大きな世界観のなかで個々の要素やそれらの相互作用というようなものを考えるスケールの大きさがあってこそ、所謂「地道な努力」を続けることができるのではないかと思うのである。

坂井氏については、戦局が最も厳しい時期を負傷のために第一線から離れていたから生き延びることができたという人もあるようだ。しかし、そういう巡り合わせも単なる偶然とは言えないのではないか。そもそも失明するほどの負傷をして乗機を着陸させること自体が日頃の鍛錬の賜物だろう。負傷の結果として戦争を生き延びるというのも、その人の生活の結果なのではないか。天変地異や不慮の災難など個人ではどうにもならないこともあるのが当たり前の世の中なので、個人ではどうにもならないことのほうが多いのが現実と言えるかもしれない。それでも、200万人近い戦闘員が命を落とした戦争を生き抜いたのは運だけではないはずだ。