人は生まれようと思って生まれるわけではない。気がつけば生きていて、なぜだか知らないが世の中では生まれたこと生きていることに感謝するのが真っ当だということになっている。なんだか産んだ側のエゴを押し付けられているだけのような気がするが、そういうことを表立って主張するのは聞いたことが無い。自ら進んで死ぬことは「罪」であったり、防止すべきことであったりするが、時と場合によっては美しいことであったり賞賛すべきことであったりする。人を殺すと殺人罪になるが、戦時に敵を殺すのは賞賛の対象だ。命というものが尊厳を持つものなら、それは普遍的に尊重されるべきものであって時と場合に左右されるものではないはずだ。生死に関していろいろ言われることには納得できるような理屈もなければ論理的一貫性もない。それが不思議でしょうがない。不思議であるままに自分の人生の最終コーナーをとぼとぼと歩いている。
『八月の鯨』は老齢の姉妹の生活の一場面を描いた作品だ。長い人生の果て、姉は夫を15年前に亡くし、妹は30年前に戦争で亡くている。姉は視力を殆ど失っていて、妹が身の回りの世話をしながら生活している。姉妹とは50年来の友人が近所に住んでいて時々遊びに訪れる。それぞれに伴侶を持ち、それぞれの家族との生活を終え、今はそれぞれが独り身になって人生の黄昏を生きている。その黄昏どうしの共同生活は15年以上に及んでいるようだ。姉妹とは言え、別個の人格を持つ者どうしが暮らしていれば平穏なときばかりはなく、その上、老齢で身体の自由が思うようにならなければ鬱憤も溜まりがちになるのは仕方のないことだろう。肉親であろうとなかろうと、共同生活には喜びも軋轢もある。それでも、伴侶を失って何十年を経ても結婚記念日を同居人が就寝した後にひとりで祝い、この先何年生きるか知れているとわかっていながらも住居の改装を共に考えたりもする。なにがあろうと前を向いて生きていくのは美しく、人生は生きる価値のある素晴らしいものだ、ということなのだろうか。
生活の糧云々以前に、生きることが真っ当なことであると信じないことには生きていられない。その信念の根拠は単なる生存の本能でしかないのではなかろうか。映像作品にはこの作品のように生きること自体を賛美するかのようなものが多いように思うのだが、敢えて賛美するということは賛美に値するかどうか疑念があることの裏返しだろう。自己をひたすらに肯定し、自分の見たいものだけしか見ず、目先のほどほどの困難に対峙して安易に勝敗や成否を問い、ほどほどに満足したり絶望したりしてたいしたつもりになる。勝敗や成否が明らかになったと認識すればそれ以上に思考を進めることはないので、それ以上の世界観の広がりはない。歴史の蓄積のなかで確かに知識は増えただろう。科学技術や学問がそれなりに成果を積み重ねてきたからこそ、生活はたぶん時代を重ねる毎に便利になっていると思う。しかし、諍いは絶えることがない。己の欲求の捌け口を求めて右往左往している。世界に紛争や戦争のない時代はなかったし、これからもそんな時代はなさそうだ。
『八月の鯨』のラストシーンは、若い頃と同じように姉妹が仲良く並んで岬の端に立ち海を眺望する後ろ姿だ。それを美しいと感じるべきなのかもしれないが、苦笑を禁じ得なかったのは私だけだろうか。