ミランダ・ジュライの『いちばんここに似合う人』(訳:岸本佐知子、原題:"No one belongs here more than you.")を読んだ。2007年のフランク・オコナー国際短編賞受賞作で、日本語訳のほうも大手書店のスタッフおすすめランキングで2010年に1位となっている。ちなみに2006年の受賞作は村上春樹の『ブラインドウィロー、スリーピングウーマン』だ。肝心のフランク・オコナーの作品は読んだことがないのだが、なんとなくテイストが想像できる。
『いちばんここに似合う人』は所謂「変人」というほどではないが、微妙にずれた感じの人の日常の違和感のようなものを描いている。「違和感」というのは主人公が感じているであろう違和感でもあり、その場における主人公の存在そのものでもある。そういう意味での「違和感」だ。それを主人公の孤独、あるいは単純に人間の孤独、と呼んでもいいかもしれない。登場人物がエキセントリックでも、それを通じて社会や人生に普遍的に存在する違和感を表現しているからこそ文学として成立し、評価されているということだろう。ここに収められている16の短編がどれも等しく面白いわけではなかったが、おそらく翻訳の上手さもあるようで、一気に読んだ。30代、40代ころの自分なら、この作品をきっかけにこの作家の他の作品も読んだかもしれない。今の自分にとっては、とりあえずもうたくさんという感じだ。煩いというか、冗長というか、面白いとは思えても楽しめないのである。
これまでの経験から言えば、人は個人としては取るに足りない存在だが関係性のなかで実在性を得るものだと思う。それをあたかも自分というものに確たる実体があると思い込むところに孤独感を生じる原因があるのではないだろうか。関係性は与えられるものではなく、相互作用のなかで形成されるものだ。「相互」というからにはそこになにがしかの実体はあるのだが、それはありそうでないような見えそうで見えない漠然としたもののような気がする。太陽はガスの塊だというが、そんなイメージだろうか。天体が互いの重力で影響しあうように、人も関係のなかで規定されている。そして、天体の多体問題のように人間関係も解はない。ちょっとしたことで雲散霧消してしまうこともあれば、自覚できない大きな作用によって一定の軌道を歩み続けていたりもする。結局は、自分という絶対的なものがあるのではなく、その時々の相手との関係のなかで立ち位置が決まるものなのだろう。常に変化する状況のなかでの位置決めは容易なことではなく、時に、あるいは常に迷うことにもなる。その迷いが違和感とか孤独感と呼ばれるのではないだろうか。つまり、そういうものがあって当たり前なのである。
当たり前の話を手を替え品を替え目の前に示されると、最初のひとつふたつはよくても、そのうち「もういいよ」ということになってしまう。それは一冊の短編集だけのことではなく、一人の作家の作品全体、一つの国の作品全体、文学というもの全体、…生きることそのものにもあてはまるのかもしれない。