熊本熊的日常

日常生活についての雑記

藁人形

2014年03月23日 | Weblog

落語の「藁人形」というのは怪談でもなければ人情噺でもない落語のなかの落語のようなしょうもない噺だと思う。「糠に釘」というサゲを言うためだけに長い噺が展開するのである。なにか大きな事件があるわけでもなく、日常の風景のちょっとした起伏でしかないようなしょうもないことでどれほど聴く人を惹き付け続けられるか、という噺家の腕が問われる、という意味で落語のなかの落語なのだ。 

落語に限らず、なんでもないことをなんでもあるようにすることが仕事というものなのかもしれない。つまり、なんでもないことを語って聴いている人を感心させるのが噺家であり、講釈師であり、小説家であり、詩人であり、評論家であるということだ。当たり前だと思われていることに当たり前ではない理屈をつけるのが学者とか研究者であり、どうでもいいことをさもたいしたことであるかのようにあくせくするのが勤め人であり、役人なのである。結局のところ、個人が生きている場というのはささやかところであり、それを凡人が大きく見せようとすれば滑稽なだけなのだが、名人上手と言われる人はそこに大きな世界とか普遍性があるかのように見せて周囲を感心させるのである。同じネタをどれだけ活かせるか、そこに素人と玄人との越え難い違いがある。

おそらく、なんでもないことというのはないのである。当たり前と思って日々やりすごしていることのほとんどは当たり前ではなく、自分の常識がどれほど「常」なる「識」なのか心もとないものだ。特別なことではない日常のことをひとつひとつ詰めてみれば、それこそ「はじめにことばありき」というような決めや割り切りをしないと、あることを要素に分解し、それぞれの要素を定義し、その定義に使うことばを要素に分解し、というようなことを無限に続けることになる。どこまで続けることができるか、ということが所謂「思考の深さ」というようなものだろう。表層をなぞるだけで終ってしまうのが圧倒的大多数で、深みを見るのが玄人と言えなくもない。なんでもないことは実はなんでもないことではなく、当たり前は当たり前ではないということをどこまで追求できるか、が素人と玄人の違いとも言える。

本日の演目
入船亭小辰 「長屋の花見」
入船亭扇辰 「藁人形」
(仲入り)
入船亭扇辰 「竹の水仙」
開演 13:00  終演 15:15
国立劇場演芸場